『孤立の各個撃破・泥濘に蠢く死兵』
フランスの先陣を切るはずだったダヴー元帥の第三軍、そして大英帝国の兵站を支えるネルソン提督の輜重車隊は、底なしの泥海と化した平原の只中で、猛烈な大嵐に直面していた。
「――巨砲、着弾!!」「ズガァァァン!!」と大地を割る咆哮とともに、北方の原生林から放たれたのは通常の鉄球ではなかった。
ロシアの不敗の老将クトゥーゾフが放った、ロシア本国から凍結されたまま運ばれてきた巨大な『氷塊』である。
「パリィィィン!!」と砕け散った氷の塊から、触れたものすべてを拒絶する絶対の冷気が吹き出す。
泥水を跳ね上げていたフランス兵のブーツが、一瞬で地面の泥ごと「カチ、カチチッ」と白く凍りついた。
焦って足を抜こうとした兵士が、次の瞬間、喉を引き裂くような絶叫をあげる。
凍りついた皮膚と肉が、長靴の革の裏側に張り付いたまま、生木を折るような「メリ、メリッ」という鈍い音を立てて引きちぎれたのだ。
「おのれ……大砲で冬を降らせるどころじゃねえ、戦場を丸ごと人間の墓標にする気だ!」
ネルソンが御者台の鉄の手すりを「ドンッ!」と叩く。だが、泥の深さと氷の罠に囲まれながらも、ダヴー元帥の瞳に動揺は一切なかった。
「――凍土破砕班、前へ! ベルティエの書いた布陣図を、一目盛りも狂わせるな!!」
ダヴーの地響きのような怒号が飛ぶと同時、フランス第三軍の工兵たちが、一糸乱れぬ動きで前線へ飛び出した。
彼らが手にするのは、ルイ十六世の工房が鍛え上げた特製の『鋼の破砕鍬』である。
「ガキィィィン! ズガガガガッ!」と火花を散らしながら、彼らは凍りついた泥の罠をミリ単位の正確さで爆速で砕き割っていく。
「輜重車隊、車軸の固定を確認! 停止からわずか三十秒、右翼の補給ルートを確保!!」
工兵が叫ぶと同時、ネルソン率いる英国の馬車が、氷が砕けた瞬間の泥を蹴立てて「ズザザザァッ!」と爆走を再開する。
車輪が泥を噛めば、御者たちが走りながら油を注ぎ込み、車輪が沈めば、別の馬車が寸分の狂いもない連携でロープを引っ掛け、速度を一切落とすことなく引きずり上げていく。
イギリスの誇る海の兵站技術が、陸の泥の上で完璧な歯車となって噛み合っていた。
しかし、西部の湿地帯では、さらに凄まじい「人間の尊厳を捨てた狂気」が押し寄せていた。
プロイセンの猛将ブリュッヘルと、ジャン・ランヌのフランス先遣突撃隊の眼前へ躍り出てきたロシアの歩兵たちは、飢饉で完全に白目を剥き、骨と皮ばかりになった身体をガタガタと震わせていた。
「……う、おお、おおおっ! 悪魔の芋を独占する売国奴め、殺して、喰らう……!」
狂信的な聖歌を呪詛のように絶叫しながら、彼らは笑って肉薄してくる。
プロイセン兵の振るう大鎌がロシア兵の脇腹を「ズグゥッ!」と深く引き裂き、ドロリとした内臓が地面に溢れ落ちる。
だが、そのロシア兵は自分の腹に一瞥もくれず、溢れた己の血を凍えた指ですくい取って口に運び、恍惚とした歪んだ笑みを浮かべるのだ。
そのまま、肉を引きちぎられた足で泥を蹴り、「ギチギチ、ギチギチ!」と狂犬のように飛びかかってくる。
「正気じゃない……! こいつら、痛いという感覚すら忘れていやがるぞ!」
ランヌが軍刀を振るい、敵の喉元を「ズシャァッ!」と深く切り裂く。
だがロシア兵は、首から激しく血を噴き散らしながら、なおもその骨張った細い指先でランヌの顔面を掻き毟ろうとしてくる。襲いかかる五万の狂気と泥仕合。
だが、これを受け止める連合軍の「食糧班」と、それを完璧に指揮する参謀の神速さは、敵の狂気を遥かに凌駕していた。戦場のど真ん中、泥塗れの伝令台。
激しい風雨に晒されながら、参謀長アレクサンドル・ベルティエは、雨水で滲む手帳に寸分の狂いもなく万年筆を走らせていた。
「ランヌの突撃隊、接敵まで残り四十秒! ブリュッヘルの開墾陣、右翼を五歩下げて大釜の排気口を開けろ! ベルリンで算出した熱量計算を狂わせるな、秒刻みで処理しろ!!」
ベルティエの手から放たれた伝令書が、泥を蹴立てる早馬によって前線へ弾丸のように届けられる。
彼の書く軍令は、ナポレオンの脳内算術を寸分の狂いもなく現実に落とし込む「絶対の歯車」であった。
「――ロシア兵の突撃速度、秒速四メートル! カレーム師、スープの温度を限界まで上げろ!!」
ベルティエの指示通り、ブリュッヘルの開墾陣の真後ろに、ルイ十六世の蒸気鉄獣が「プシューッ!!」と凄まじい排気音を立てて連結された。
その上に鎮座する巨大な鉄の大釜を仕切るのは、天才料理人アントナン・カレーム率いるフランス食糧班である。
「火力を落とすな! 薪の代わりにプロイセンの余った木炭をくべろ! 塩の分量は算術通り、肉の旨味をジャガイモの澱粉で一滴残らず閉じ込めるんだ!」
カレームの怒号と同時に、職人たちが踊るような手捌きで巨大なすりこぎを回す。
大釜の中で「グツグツグツ、ドロドロドロォッ!」と猛烈な勢いで煮えたぎるのは、超高熱・高濃度の『濃縮肉塊ポテトスープ』ハーブの強烈な香りと、肉脂の暴力的なまでの美味い匂いの湯気が、戦場に立ち込める焦げ臭い煙と血の匂いを力ずくで叩き潰していく。
「──今だ! 突っ込んでくるロシア兵の口に、この温もりを叩き込め!!」
ランヌが最前線で軍刀を掲げて咆哮する。
プロイセンとフランスの兵士たちは、突撃してくるロシア兵の武器を鍬で弾き飛ばすと、格闘戦に移るのではない。
ベルティエの指定した秒刻みのタイミングに寸分の狂いもなく、背後の輜重車から次々と手渡される「鉄のカップに注がれたアツアツのスープ」を、掴みかかってくるロシア兵の開いた口の中へと、力ずくで流し込んでいった。
「──ガハッ!? カ、カハ……ッ! Competence(美味い)……!?」喉元を焼くような、しかし身体の芯から魂までを震わせる圧倒的なスープの熱量と、狂おしいほどの美味さ。
白目を剥いていたロシア兵の瞳に、一瞬にして生きた人間の「光」が戻る。痛覚を麻痺させていた狂気が、脳を直接殴りつけるような美味の暴力によって一瞬で粉砕され、彼らは泥の中にバタバタと崩れ落ちた。
「温かい……なんだこれ、温かい……!」泣きながら泥を這い、貪るようにスープを啜り始めるロシア兵たち。襲いかかる五万の狂気を、殺すのではなく、「ベルティエの正確な時計、工兵を率いるダヴーの執念、最前線で敵を抑えるランヌの武勇、そして料理人の職人技」によって、秒刻みで救済していく欧州連合。
そこには、英雄の奇跡などない。ただ、己の職務を極限の速度と正確さで全うする、有能すぎるフランスの怪物たちによる防衛戦線が、ロシアの焦土をじわじわと黄金のスープの湯気で塗り替えていた。
「――報告! 西部湿地帯、および北方平原、カレーム師の第一波の投入、完了!!」戦場から数十マイル後方、全欧州連合軍の総本陣。
泥塗れの早馬から飛び降りた伝令兵が、息を切らしながらナポレオンの前に平伏した。
「ロシア先遣隊の狂気、完全に沈静化! 凍土は破砕され、我が軍の損害は極小! ──ポーランドの村々は今、飢えから解放されつつあります!」
本陣の天幕の中に、張り詰めていた空気が一気に弛緩するような、温かい安堵の吐息が満ちていった。
地図を見つめていたナポレオンは、手帳を閉じることもなく、ただフッと短く鼻で笑ってみせた。
己の愛弟子たちと、他国の怪物たちが、己の算術を完璧に、いや、それ以上の神速さで現実の盤面へと落とし込んでみせたのだ。
「……やれやれ。吾輩の数式を上回る速度で戦場を平らげるとはな。これだから、現場の職人どもは恐ろしい」
その不遜な、しかしどこか誇らしげな呟きの背後。
金細工の施された重輜重車の傍らで、マリー・アントワネットが静かに歩み出た。
彼女の瞳が見つめるのは、目の前の地図ではない。東の空、激しい雨の向こうで、カレームのスープの湯気によって静かに救われ、涙を流しているであろうポーランドの民たちの姿だった。
マリーは華やかな扇をそっと胸元に抱き寄せると、泥に汚れた大地の上で、静かに膝を折った。
かつてフランス宮廷で傲慢に振る舞っていた王妃の姿は、そこにはない。
国境を越え、飢えに苦しむすべての民を我が子のように想う、真の聖女の横顔がそこにあった。マリーはそっと両目を閉じ、凍てつく荒野に向けて、深く、深く、祈りを捧げ始めた。
それは、これより連合の黒土に植えられるじゃがいもが、すべての胃袋を等しく満たすようにという、慈愛に満ちた『豊穣』の祈り。
そして同時に、ロシアの冷酷な焦土戦術の前に、温かい飯の味を知らぬまま凍える冬に消えていった、数多の哀しい魂たちを温かく抱きしめるための、切なる『哀悼』の祈りであった。
「ホロホロ、ホロホロ……」彼女が小さな唇から祈りの声を紡ぎ出すたび、漆黒の夜空から降り注ぐ冷たい雨の滴が、微かな黄金の光の粒子へと姿を変えて、ポーランドの黒土へと吸い込まれていく。
最前線の泥の匂いとスープの湯気、そして本陣に響く聖女の静かな祈りの声。
冷害に閉ざされた全欧州が、確かに、本物の『救済』へ向けて動き出そうとしていた




