『神速の防衛線と、遅れてきた軍神』
大破砲の巨大な砲口が「ゴォン、ゴォン」と鈍い金属音を響かせて湾を睨みつける中、大英帝国の鋼の輜重車隊が、「ズザザザザァッ!」と派手に雪を撥ね散らして陸地へと滑り込んでいく。
「ハッ、陸の軍神様をお待たせするわけにはいかないからな!」
「プシューッ!」と凄まじい蒸気を吹き上げる輜重車の天窓から、隻眼の奥に青い炎を燃やしたネルソンが顔を出し、豪快に笑った。
「フランスの魚と芋の恩義を返すためだ。この極寒の地へ鋼の馬車を走らせることなど、造作もないわ!」
「バサササッ!」と荷台の分厚い幌が勢いよく跳ね上げられた瞬間、凍てつく荒野に、あり得ない「匂い」が爆発した。
運び込まれたのは、ただの軍需物資ではない。カレームの監修を受け、巨大な鉄鍋の中で今まさに「バチバチバチッ! ジュワァァァーッ!」と激しい音を立てて揚がっている、黄金色の衣をまとった肉厚のタラ。
臨戦態勢の熱い油が弾け、それを受け止める湯気立つ揚げ芋の山――大英帝国が誇る、極上の『フィッシュ&チップス』の即席厨房車の一団であった。
「──野郎ども、フランスに胃袋を救われた恩を、今ここで利子をつけて叩き返してやれ!」
ネルソンの怒号に応え、プロイセンの開墾兵たちが鍬を放り投げ、「うおおおっ!」と歓声を上げてその黄金の塊を素手で掴み、口に放り込む。
「カリリッ、ザクッ!」と凍った空気を切り裂くような小気味よい咀嚼音が響き、兵士たちの口から、ロシアの冷気を力ずくで押し戻すほどの真っ白な、大蒜と油の香ばしい湯気が「フシューッ」と豪快に吹き出した。
「美味い、美味すぎる! 身体の芯から血が沸き立つぞ!」
「ロシアの焦土が何だ! この温かさがある限り、俺たちの鍬は折れん!」
その圧倒的な熱気と匂いは、逃げ惑うロシアの殿兵たちの鼻腔をも容赦なく貫いた。
凍てつく風に乗って押し寄せる、狂おしいほどに濃厚な油と魚の匂い。
「が、はっ……なんだこの、胃袋を直につかんで引きずり回されるような匂いは……!」
寒さで干からび、凍りついていた彼らの喉が「ゴクリ」と激しく鳴る。
戦うことすら忘れ、よだれを垂らしながら黄金の皿へとふらふらと歩き出すロシア兵の肩を、プロイセン兵が「ガハハ!」と笑って抱きとめ、熱々の揚げ芋をその口へ力ずくでねじ込んだ。
涙を流して貪り食う敵兵の姿に、もはや戦場の殺気は欠片も残されていない。
さらに地平線の彼方、「ガタガタガタッ! ズサァーッ!」とボロボロになりながらも泥を撥ね散らして突進してくる別動隊があった。
スペインとオーストリアの輜重車だ。
本国は民衆のパンを求める熱狂で崩壊寸前でありながら、彼らは叫んだ。
「我が国は死にかけだが! 聖女マリーに頂いた恩義の米と果物だけは、這ってでも届けてやったぞ!」
届けられた特産品が次々と前線へ融和し、消費した端からアツアツの完成品へと姿を変えて兵士たちの胃袋へ叩き込まれていく。
飢えを知らぬ男たちの執念は、義務や軍令を超えた、美味い飯への狂信的な情熱。全欧州の怪物たちが、フランスのために完璧な舞台装置を作り上げて待っていた。
一番最後に、フランス本隊の長い列がゆっくりと姿を現した。
白馬の足取りは、驚くほど遅い。
「パカッ、パカッ」とその背に跨がる男は、泥のついた不格好な農業士官の制服を着ていた。
二角帽子を深く被り、片手を上着の胸元に差し込んでいる。ナポレオン・ボナパルト。
彼の後ろには、金細工の施された贅沢な重輜重車が続いていた。
その窓からは、マリー・アントワネットの華やかな扇と、ルイ十六世の穏やかな、しかしどこか覚悟を決めた眼差しが覗いている。
「遅いぞ、ボナパルト閣下!」ブリュッヘルが「ドンッ!」と手にした鍬を地面に突き立て、凍った髭を震わせて笑い飛ばした。
「貴公が馬車の中で算術をこねくり回している間に、我らの歓迎(開墾)は終わってしまったわ! あまりに退屈で、このままロシア本国まで耕しちまうところだったぞ!」
「まったくですな。我が英国の馬車も、車輪を焼き切る速度で極上の揚げ物を配り終えていますよ」
ネルソンが肩をすくめ、その横でランヌやベルティエが不敵な笑みを浮かべる。
美味い飯を喰らい、尋常ではない熱気を放つ有能すぎる怪物たちに囲まれ、ナポレオンは心底めんどくさそうに片眉をひそめた。
彼は冷たい息を「はぁー」と一つ吐き出すと、手元の手帳を開いたまま、漆黒の瞳をギラリと光らせて他国のレジェンドたちを見据えた。
「……やれやれ。吾輩の完璧な刻限の計略を前倒しにするなと言いたい。これだから、猪突しか知らぬ者の浅知恵は反吐が出る。吾輩は最高農政官の椅子にも、戦争の指揮官にも、これっぽっちの興味もない。本当は退職金をもらって、田舎の書庫に引きこもって静かに歴史の研究でもしていたかったのだ」
ナポレオンは吐き捨てるように本音を零したが、すぐにその指先で、手帳に記されたロシアの進軍ルートを「トントン」と冷徹に叩いた。
「だが、眼前の統治が歪み、民が飢えようとしているのを見過ごせるほど、吾輩の辞書は無責任にできていない。ロシアの総力は巨大だ。正面からぶつかれば、どれほどの食糧があっても足りん。だからこそ──吾輩は、奴らが国境を越えてバラバラにやってくるその瞬間の隙を突く。『各個撃破』だ。大軍としてまとまる前に、やってくる先遣隊の胃袋から順番に、カレームのスープと我がフランスの芋で『各個に粉砕、救済』し、内側から丸ごと吾輩の陣営へと塗り替えていく。これこそが、この戦を無血で終わらせる唯一の算術よ」
たった今、目の前で起きた「匂いによるロシア兵の無血降伏」の真意を悟り、ランヌやベルティエが不敵な笑みを漏らす。
「パカカッ!」ナポレオンは手帳を開いたまま、白馬の腹を軽く蹴り、連合軍の全兵卒が見上げる前へ、ゆっくりと馬を進めた。東の地平線から吹き付けるロシアの極寒の風が、彼の泥まみれの二角帽子を揺らし、不格好な農業士官のマントを激しく「バササササッ!」と後方へ翻れさせる。
白馬が前足を高く跳ね上げ、いななきを上げた。その瞬間、ナポレオンは上着の胸元から片手を引き抜くと――冷たく凍てつく天に向かって、右手を高々と突き上げた。
その掌に握られていたのは、剣ではない。大地の泥を湛え、丸々と太った、一個の不格好な『じゃがいも』であった。数万の全欧州連合軍の視線が、その泥まみれの命の塊へと釘付けになる。
ナポレオンは漆黒の瞳をギラリと光らせ、地響きのような大音声で荒野を震わせた。
「──この地を取り戻す! この奇跡の糧食をもって、飢えに狂うすべての魂を救済する! 吾輩は、各国がその胃袋の責務を全うすることを期待する!」
その言葉が響いた瞬間、輜重車の天窓から身を乗り出していたネルソンが、隻眼を細めて「ふっ……」と低く笑った。
「……ハッ。大英帝国の合言葉を、そんな泥まみれの芋のために使ってくれるなよ、ボナパルト閣下」
己の誇り高き名言を「胃袋の責務」と言い換えられた海の怪物は、しかし最高に愉しげに肩をすくめてみせる。
ナポレオンはさらに、じゃがいもを掲げたまま、隣に立つプロイセンの老将へと傲慢な視線を向けた。
「行くぞ、ブリュッヘル。全軍、前進だ」今度は、ブリュッヘルの凍った髭が「ガハハハハ!」と激しく震えた。
「おいおいおい! 吾輩の口癖まで、抜け抜けと己の算術に組み込むか、この若造が!」己の魂のセリフすら計算通りに奪ってみせたナポレオンの不遜さに、老将は心底痺れたように歯を剥き出し、手にした鍬を高く掲げて荒野に吠えた。
「応よ! 全軍、前進ッ!!」
たった今、目の前で起きた「匂いによるロシア兵の無血降伏」の真意を悟り、ネルソンとブリュッヘルは一瞬だけ息を呑み、次の瞬間には「ハッ!」と不敵な笑みを漏らした。
ナポレオンは手帳を開いたまま、白馬の腹を軽く蹴り、前進を促した。その泥まみれのブーツが、耕されたばかりの、温かい黒い土を踏みしめる。
「王妃陛下、陛下。遅れてきた本物の『奇跡』を呼び込むための、最初の盤面は整いました。大地の果てまで、豊穣の旗を植え付けるぞ」彼の言葉に応えるように、ルイ十六世が静かに蒸気車のレバーを「ガコンッ」と引いた。
「ゴオオオオオ……!」と地響きのような重低音が荒野に鳴り響き、鉄獣の煙突から、凍った夜空を焦がすほどの真っ赤な火の粉が「ブワッ!」と舞い上がる。
その火の粉の向こう、マリー・アントワネットが掲げた扇の先から、冷害の白銀をじわりと溶かすような、微かな黄金の光の粒子が「ホロホロ」と零れ落ちていた。東の地平線から吹き付けるロシアの極寒の風が、欧州連合が放つ圧倒的な飯の湯気と、聖女の光の前に、一瞬だけ怯んだかのように「ヒュウ……」と凪いだ。




