閑話3『黄金の種火と、前線への志願』
主力の特使団と百騎の近衛兵がウィーンへ向けて出発した後のヴェルサイユ宮殿は、もはやかつての、贅沢と怠惰に狂った貴族の巣窟ではなかった。
宮殿の広大な庭園は、すべて最新のジャガイモ畑へと開墾され、深夜になっても消えることのない松明の光が、黙々と働く職人たちの影を長く地に落としていた。
「――遅い! 軸受けの強度が足りないぞ! これではボナパルト殿の算出する『超高速流速の兵站』に、馬車の車輪が耐えられん!」
ヴェルサイユの鍛冶場。顔中を真っ黒な煤で汚した国王ルイ十六世は、高級な上着を脱ぎ捨て、職人たちと共に巨大な蒸気機関のピストンを叩き直していた。
彼はナポレオンたちのために、さらに作戦を支える『爆走蒸気輜重車・三号』の製造に、一睡もせず没頭していたのである。
その横では、ジャーナリストのカミーユ・デムーランが、ウィーンでの欧州連合結成の歴史的勝報を、世界へ伝えるための号外新聞として休むことなく印刷機を回し続けていた。
その時、鍛冶場の重い鉄の扉が開き、プラチナブロンドの髪を揺らすマリー・アントワネットが、凛とした足取りで入ってきた。
「陛下。私も、そしてエリザベートも、今度のロシア遠征軍に同行いたします」
王妃の突然の『戦場への志願』に、周囲の職人や将軍たちが一斉に色めき立ち、声を荒らげた。
「無茶です、王妃陛下! 前線はロシアの狂気が吹き荒れる、本物の血と泥の地獄にございます!」
「一国の象徴たるお方が、戦場に赴くなど絶対に認められません!」
だが、マリーは泥のついたエプロンをきゅっと結び直し、首を横に振った。
「いいえ。ロシアの焦土戦術によって、ポーランドの大地は呪われたように凍てつき、民が明日の命を見失っています。彼らの凍えた心を救うには、カレームの温かいスープだけでなく、私が受け継いだ初代聖女ジャネット様の『黄金の光』で、その場で大地を正常に浄化・再生させる必要があるのですわ。これだけは、どうしても譲れません」
「……その通りだ。我がフランスの最新鋭技術の重輜重車を、戦場の極限状態で誰が整備するというのだね。職人としての私の腕も、前線には不可欠だ」
ルイ十六世もまた、油まみれのスパナを強く握りしめ、王妃の隣へと並んだ。
王族が揃って前線へ赴くという、歴史の常識を根底から覆す『無理』
しかし、二人の瞳に宿る、民を一人残らず生かしてみせるという気高き豊穣の執念の前に、反対していた将軍たちもついに言葉を失い、深く頭を垂れるしかなかった。
――そして、進軍を開始した全欧州連合軍の、最前列。 寒冷な長雨が激しい白銀の雪へと変わり、視界を遮る国境の荒野。
白馬に跨がり、泥のついた不格好な農業士官の制服を纏ったナポレオン・ボナパルトは、懐から算術手帳を取り出し、冷徹な隻眼で東の空を見つめていた。
手帳の端には、ヴェルサイユに残してきた妻、ジョセフィーヌが皮を剥いてくれたリンゴの香りが、まだ微かに残っているような気がした。
――『あんたの背中は、この私がずーっと支えてあげるからさ』
その唯一無二の相棒の祈りを胸の奥に仕込み、ナポレオンは手帳をパチンと音を立てて懐へ収めた。
ナポレオンは白馬をいななかせ、並走するランヌ、ダヴー、ブルーヘル、そして後方から追従するルイ十六世とマリーの蒸気輜重隊を振り返り、五臓六腑を震わせるような、絶対的な進軍の号令を響かせた。
「――時間は、すべての人類に平等だ」
軍神の放つ、冷徹にして圧倒的な覚悟の言葉。
「だが、東方の地獄で、明日をも知れぬ飢えの前に『一刻を争う者たち』がいるのも、また厳然たる事実だ。……準備ができた部隊は、ただひたすらに進め。後ろは気にするな。吾輩が、このフランスが、貴公らのすべての背中を数式の盾で護り抜いてやる」
ナポレオンはニヤリと、絶対の勝利を確信した不敵な笑みを浮かべ、軍刀を東方の漆黒の空へと真っ直ぐに突き立てた。
「――これより国境を越える! ポーランドを、救いに行くぞ!!!」
「「「おおおぉぉぉぉぉッ!!!!!」」」
地鳴りのような数万の咆哮が、極寒の地平を揺るがした。
ルイ十六世の蒸気機関が爆発的な白煙を上げ、マリーの胸にある黄金の種火が、静かに、しかし世界を救うために赤々と燃え上がる。
人類史上、最も優しく、最も過酷な殲滅戦の幕が、ついに切って落とされたのである。




