閑話1『漆黒の女帝と、飢餓の焦土命令』
ウィーンの華やかなワルツとフランスのスープの匂いから逃れるように、夜陰に乗じて帝都を退散したロシアの馬車は、地獄のような泥濘の街道を狂ったように東へと突き進んでいた。
帰国した猛将クトゥーゾフが足を踏み入れたのは、聖クトゥーゾフ宮殿の、蝋燭の光すら届かぬほど陰鬱に静まり返った謁見の間であった。
薄暗い玉座の奥に、漆黒の毛皮を纏って君臨するのは、ロシア帝国を統べる絶対の女帝――エカチェリーナ二世。
その冷酷な双眸が、拝跪するクトゥーゾフを闇の中から見下ろした。
「……メッテルニヒのお遊戯会はどうだった、クトゥーゾフ。フランスの小男は、我が大軍の威光の前に震えて調印書にサインをしたか?」
クトゥーゾフは苦い泥水を飲み込むような顔で、深く頭を垂れた。
「……ハ。報告いたします、陛下。ウィーンの最高会談は、完全に崩壊いたしました。フランスの最高農政官ナポレオン、そしてマリー王妃が会議室へ乱入。奴らは『豊穣の数式』と称する未知の芋料理で、イギリスの小ピットやオーストリア、スペインの胃袋を完全に掌握いたしました」
「……何だと?」
「それだけではありません。我が軍に芋の苗を渡されたプロイセンのブルーヘルまでもが奴らの盾となり、英仏普の三大大国が『同じ釜の飯を食った同志』として結託いたしました。西欧の包囲網は消滅し、我がロシア帝国は、国際社会において完全に孤立いたしました……!」
パキリ、と、女帝が握りしめていた銀の扇がへし折れる音が、静寂の間に不気味に響いた。
エカチェリーナ二世の顔が、怒りと、そして生まれて初めて味わう「本物の恐怖」によって醜く歪んでいく。
フランスの思想が東へ進めば、自国が300年間維持してきた、武力による農奴支配のシステムが内側から崩壊する。
「おのれ、不浄なるフランスの売国奴どもめ……! 悪魔の芋で世界を洗脳し、この我が国を脅かそうというのか! だが、我がロシアが飢えの前に膝を折ることなど断じてない!」
女帝は立ち上がり、机の上に広げられたポーランド、そして自国の地図を狂気的な目で凝視した。
冷害の雨はロシア全土の小麦を全滅させ、国内では毎日数千人の農奴が餓死して転がっている。
待てば内側から絶滅する。
だからこそ、ロシアはもう、後に引けない絶壁に追い詰められていた。
「クトゥーゾフ。ポーランドの進捗はどうなっている」
「ハ!我がコサック騎兵と正規軍が、現在も全域で『徹底的な徴発』を行っております。現地の農民どもから冬を越すための種モミ、家畜、衣服に至るまで、文字通り一粒残らず奪い尽くしております。……ですが、抵抗する者が多く、少々手間取って――」
「手緩い!!」
女帝の凄まじい怒声が、宮殿の天井を震わせた。その瞳には、もはや生存戦略を越えた、他者を巻き込んで滅びようとする完全な『狂気』が宿っていた。
「種モミを奪われて泣き叫ぶ者がいるなら、その喉元をサーベルで裂け! 衣服を奪われて凍える子供がいるなら、その家ごと生きたまま焼き殺せ! フランスのスープが届く前に、ポーランドの全ての土地を、人間が二度と住めぬ『剥き出しの地獄』に変えてしまえ!」
「へ、陛下……。そこまでしては、現地に実るはずの来年の糧すら失うことに――」
「黙れ! 我が国が生き残るためなら、隣国など干からびた死体の山になっても構わん! 奪えるものはすべて奪い、奪えぬものはすべて焼き尽くすのだ!」
女帝は狂ったように笑い、クトゥーゾフの胸元へ、血のような赤い蝋で封印された『焦土命令書』を叩きつけた。
「フランスの軍神が、機動力と兵糧の数式でこちらへ向かってくるというなら、迎え撃ってやろう。奴らが一歩進むごとに、目の前の街を、畑を、井戸を、すべて自らの手で焼き払え! 冬将軍という絶対の闇が全てを凍らせる。食べるものが一粒もない極寒の荒野で、フランスの兵どもが自らの肉を喰らい合って自滅していく凄惨な数式を、あの小男に見せつけてやるのだ!!」
奪う、焼く、殺す――。
世界がフランスの豊穣によって「誰も飢えない未来」へと手を結ぶ中、ロシア帝国だけは、自国の生存のために他国を文字通りの地獄へと叩き落とす、凄惨な暴走へと完全に舵を切った。
「御意に……。神の名において、フランスの悪魔どもを飢餓の底へ沈めて見せましょう」
クトゥーゾフは命令書を胸に抱き、冷酷な隻眼の奥の殺意を最大に燃え上がらせて一礼した。
東方の闇は、さらに深く、残酷にポーランドを包み込もうとしていた。
しかし、この狂気的な焦土戦術の決断こそが、ロシア皇帝が自国の民からも、そして世界からも完全に見限られ、旧システムごと上書き殲滅されるための、決定的な破滅の引き金となることを、彼らはまだ知る由もなかった。




