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飢餓と戦うフランス歴史IF  作者: 癒されたい年頃


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『英雄のタクトと、常勝の数式』

 ロシアのクトゥーゾフが去った最高会議室には、もはやフランスを隔離しようとする「罠」の空気は微塵も残っていない。


 カレームの料理に胃袋を掴まれ、マリー・アントワネットの笑顔に魂を射抜かれた列強の首脳陣は、今や同じ釜の飯を食った「欧州連合軍」の同志として、再び円卓の上に新しい地図を広げていた。


「これより、東方で蹂躙されるポーランドの救済、およびロシア帝国の暴挙を喰い止めるための『全欧州開墾遠征』の具体的な戦術を始める。諸公、吾輩の部下たちの数式を聞くがいい」 


 ナポレオン・ボナパルトの号令とともに、円卓の前に進み出たのは、フランスが誇る最強の将軍たちである。


 今回の遠征において、ナポレオンは最高指揮官として後方から全体の兵站を統括する役割に回り、前線の具体的な戦術指揮は、その手足となる優秀な部下たちに委ねられていた。


 まず一歩前に出たのは、金髪の巻き毛を揺らす猛将ジャン・ランヌだ。


 史実において「フランスの勇者」と称され、常に前線の最も危険な突撃路を切り拓いてきた男である。


「私が先遣突撃隊を率いる! プロイセンのブルーヘル将軍の『爆速開墾部隊』と同盟を組み、国境の泥濘を強行突破してポーランドへ地頭に雪崩れ込む。ロシアのコサック騎兵がどれほど不意打ちを仕掛けてこようが、我が軍の突撃力で一歩も退かずに敵の戦線を叩き潰して見せよう!」 


 ランヌの血気盛んな宣言に、円卓の将軍たちが頼もしそうに頷く。


 続いて、物静かで冷徹な知性を漂わせる元帥、ルイ=ニコラ・ダヴーが、眼鏡の奥の瞳を光らせて地図の北方を指差した。


「ランヌが敵の正面を崩すなら、私は第三軍を率いて北方平原から迂回し、ロシア軍の退路を完全に遮断する。史実の戦術に則り、我が軍の規律は鉄の如し。どれほど極寒の長雨が続こうとも、一兵たりとも行軍速度を乱すことはない。ロシア軍に、略奪した食糧を東へ持ち帰る時間は与えない」


「素晴らしいな。ならば、その両軍の隙間を繋ぎ、全ての情報を我が手帳に集約するのは私の役目だ」


 ナポレオンの右腕であり、精密な作戦立案と命令伝達において人類史最強の参謀長と称されるルイ=アレクサンドル・ベルティエが、びっしりと数字の書かれた書簡を机に並べる。


「ルイ十六世陛下が魔改造された『爆走蒸気馬車二号』の移動速度、およびカレーム殿の輜重隊がスープを沸かせる熱量を分単位で計算し、全前線へリアルタイムで補給線を敷き続ける。大砲を撃つのではない、道を作るのだ。ベルティエの辞書に、兵糧が尽きるという文字は存在しない」


 ランヌの圧倒的な突撃、ダヴーの冷徹な包囲、そしてベルティエの兵站管理。


 史実においてナポレオンを「常勝」へと導いた不敗の将軍たちが、今回は殺し合いのためではなく、ポーランドの民を餓死から救い、ロシアの旧システムを上書きするためにその才能のすべてを噛み合わせている。


 ――その作戦会議が熱を帯びていく円卓の裏で。 


 会議室の片隅では、もう一つの、歴史的な「結成」が静かに進行していた。 


 十九歳の若き楽聖、ベートーヴェンが、フランスの豊穣の思想とナポレオンの覚醒に魂を震わせ、ウィーン中の優れた音楽家たちに秘密裏に声をかけ、一つの巨大な楽団を組織していたのである。


「集まってくれ、ウィーンの同志たちよ」


 耳の遠のきつつある絶望の淵で、ベートーヴェンは楽器を抱えた仲間たちの前に立ち、その指揮棒を力強く掲げた。


「フランスの最高農政官たちは、言葉だけでなく、命の算術をもって世界を飢えから救おうとしている。私の音楽など、地獄の戦場では無力な雑音だと思っていた。……だが、彼らが『剣を鍬に、大砲を道に』と命を懸けて前進するなら、我ら芸術家は、音の弾丸をもって彼らの背中を讃え、世界の心を救う盾とならねばならん! これより、新時代を告げる常設楽団――『ウィーン・フィル』をここに結成する!!」


 音楽家たちが一斉に楽器を構え、深く頷く。


 ハイドンやモーツァルトの遺志を継ぐ若き才能たちが、一つのシンフォニーの下に命を吹き込まれた瞬間である。


 そして――事前会議が終わり、ナポレオンが全欧州連合軍の出撃の号令をかけるため、壇上の最前列へと歩み出た、まさにその瞬間だった。 


 ザッ、とウィーン・フィルの楽団員たちが一斉にタクトに従い、音を紡ぎ出す。


 会議室の空間に響き渡ったのは、ベートーヴェンがこの救世主たちのために書き下ろした、交響曲第三番――『英雄(エロイカ)』の、あまりにも雄大で、不屈の情熱に満ちた旋律であった。 

 ジャジャーン! と激しい二発の和音(打鍵)が室内の空気を破裂させ、地を這うようなチェロの主題が、これから始まる大遠征の進軍の足音のように重厚に鳴り響く。


 その『英雄』の気高き旋律をバックに背負いながら、ナポレオン・ボナパルトはマントを激しく翻し、全欧州の将軍たちへ向けて、その五臓六腑を震わせるような圧倒的な出撃演説を解き放った。


「――全軍へ告ぐ! 算術の証明を始めるぞ!!」 


 ナポレオンの声が、エロイカの激しい金管楽器の咆哮と完全に同期する。


「東方のロシア皇帝は、冬将軍という気候を武器にし、自国の民を飢えさせ、他国のポーランドを無惨に踏みにじった! だが、人間の命を数字としてしか見ない旧時代の暴力など、吾輩のいる欧州連合の豊穣の前に、一歩たりとも前進することは許されん! イギリスは海を閉ざせ! プロイセンは大地を切り拓け! 我がフランスの将軍たちは、その強固な規律をもって、凍てついた戦場をすべて黄金色の芋畑へと上書き殲滅してやるのだ!」


 ランヌが、ダヴーが、そしてブルーヘル将軍が、エロイカの転調する激しいリズムに合わせて一斉に軍刀を天に掲げ、地鳴りのような怒号を全ウィーンへと突き返した。


「神の名においてではない! 我ら人類の生存の執念において、これよりロシア開墾遠征を開始する! 剣を鍬に! 軍馬を道に! 飢えを無くすやり方なら、我がフランス、いや、この新しき欧州連合に請え!! 全軍――前進(フォルヴェルツ)――!!!!!」


「「「おおおぉぉぉぉぉッ!!!!!」」」 


 オーケストラの『英雄』の最高潮のクレッシェンドが、何百人もの将軍たちの咆哮と重なり合い、シェーンブルン宮殿の全海域、いや、全大地を震わせる。


 会議室の窓の外では、冷害の長雨がいつしか激しい白銀の雪へと変わり始めていた。


 だが、出撃を待つ百人の特使、そして数万の連合軍の兵士たちの胸には、飢えの恐怖を完全に麻痺させるほどの、熱い「豊穣の戦熱」が限界まで吹き上がっていく。 


 陸のナポレオンの算術、マリーの愛、カレームの胃袋の救済、そしてベートーヴェンの英雄の旋律。


 旧システムを完全に殲滅するための、人類史上最も優しく、最も過酷な「救済の大遠征」が、今、激しい蒸気の唸りとともに、運命の幕を開けたのである。


ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!

ついにナポレオンとマリー、そしてカレームの『調和の数式』が動き出しました。

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