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飢餓と戦うフランス歴史IF  作者: 癒されたい年頃


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『ウィーン晩餐会・怪物たちの和解』

 最高会議室の円卓へ運び込まれたのは、湯気を上げる特製の大釜と、嗅いだこともないほど香ばしい、命の匂いだった。 呆然とする各国の怪物たちの前で、菓子長アントナン・カレームが恭しく一礼し、マリー・アントワネットが微笑みながら、自ら料理の器を列強の重鎮たちへと配り始めた。


「メッテルニヒ殿。そちらは貴国の伝統料理を、我がフランスの芋粉で救済した『サクサクのシュニッツェル』にございます。小麦が足りず衣が作れぬなら、この芋の粉を使いなさい。冷めてもサクサクとした食感が続く、最強の兵隊食となります」


「小ピット殿、そちらはバレンシアの米と芋を豪快に炊き合わせたスペインのための『パエリア』。そして北イタリアの公使よ、そちらはトウモロコシ粥にオーストリアのチーズを溶かし込んだ、病を退ける『黄金のポレンタ』だ。……これらはすべて、我が国の最高菓子長カレームと、マリー王妃陛下が、貴国らの食文化を心からリスペクトし、必死に考案して作り上げた結晶にございます」


 カレームの凛とした説明に、怪物たちは気圧されながらも、抗えぬ飢えの衝動に駆られてフォークを動かした。


 サクッ――。


 静まり返った会議室に、小気味いい、信じられないほど軽やかな音が響いた。


 メッテルニヒがシュニッツェルを口にした音だった。


「なん……だと……っ!?」


 メッテルニヒは激しい胃痛を忘れ、目を見開いて絶句した。


 従来のパン粉を遥かに凌駕する軽快な歯応えと、溢れ出す肉の旨味。


 スペインやイタリアの公使たちも、目の前の温かい黄金の料理を涙を流して貪り食い始めた。


 イギリスの小ピットすら、その洗練された物流と調理の数式の前に、震える手でカツレツを口へと運んでいた。


 怪物たちが言葉を失い、貪り食うその瞬間。 


 会議室の片隅に置かれていたグランドピアノの前に、一人の青年が静かに座った。


 十九歳の若き楽聖――ベートーヴェンである。 


 彼が鍵盤に両手を振り下ろした瞬間、それまでの優雅な宮廷ワルツは完全に掻き消され、室内の空間そのものが激しく引き裂かれた。


 弾き鳴らされたのは、重苦しい絶望を湛えていた『月光』の、最終楽章。


 若き天才の指先は、まるで鍵盤を破壊せんばかりの凄まじい力で、地を這うような激情の打鍵音を高速で刻みつけていく。


 彼の耳は、すでに世界の音を拒むように遠のき、静寂の淵に沈みかけていた。


 だが、だからこそ、彼の脳裏で鳴り響く「ポーランドの子供たちの悲鳴とエレオノーレの涙」が、音符の刃となって怪物たちの胸元へ突き刺さる。 


 楽譜など見ていない。耳ではない、魂の奥底から溢れ出す音の濁流。


 ピアノの弦が悲鳴を上げ、ペダルを踏み込むたびに会議室の床が地鳴りのように震えた。


 死を数えるだけだった戦場の狂気、国家のエゴ、そしてそれらをすべて飲み込んで進むフランスの豊穣――。


 そのすべてが音楽という名の圧倒的な嵐となり、怪物たちの凝り固まったプライドを粉々に打ち砕いていく。


 その魂を削るような凄絶な演奏に圧倒され、温かい料理を口にしたまま身動きの取れなくなった列強の姿を眺めながら、ナポレオン・ボナパルトは算術手帳を閉じ、低く、深く、その隻眼に得心のいった光を宿して呟いた。


「……なるほどな。食は腹を満たすが、音楽は心を満たす、か」 


 ナポレオンはゆっくりと円卓を見回し、絶対の支配力をその声に宿した。


「理解できたか、諸公。これは他ならぬ我がフランスが提示する『豊穣と調和』の数式だ。刃を交えずとも、互いの国を救う道はここに揃っている」 


 軍神の声が、鳴り止まぬ激情の旋律に乗って怪物たちの脳裏に突き刺さる。


「今この時をもって、我らは同じ釜の飯を食った同志とならないか? 飢えのために憎み合い、戦争などという無益なことで尊い資源を浪費するより、よほど有意義だと思うがね。……まあ、どうしても受け入れられないというなら、大軍を率いて来るがいい。分かりやすいように完璧に無力化し、また同じスープを口の中に救済してやるだけだ」 


 傲慢にして底なしの包容力。 


 列強の将軍たちが、そのあまりの美味さと芸術、そして救済の数式の前に、渋々この場を濁して講和に応じるべきか思案し、視線を交わし合っていた、まさにその時――。


 パチ、パチ、パチ、パチ。 


 静寂を破り、円卓の一角から、割れんばかりの激しい拍手が鳴り響いた。 


 立ち上がったのは、プロイセンの猛将、ブルーヘル将軍であった。


 彼は白髭を揺らし、豪快に笑いながらナポレオンへ向けて叫んだ。


「素晴らしい! 貴公の提案、我がプロイセンは全面賛成だ! あのスープとジャガイモの苗の価値は、このブルーヘルが誰よりも知っておる!」 


 ブルーヘルは一転して、周囲の顔を真っ赤にしている各国の重鎮たちを、猛犬のような目で睨みつけた。


「 ウィーンの化石どもよ!これでフランスを敵に回そうものなら、フランスだけでない! 我がプロイセン、そして『我が前進(フォルヴェルツ)』の全軍をも相手にすることになるぞ! ……海の向こうのイギリスは、それがどれほどの地獄か、すでに身を以て分かっていると思うがな!」


 不屈のプロイセンがフランスの『盾』として完全に寄り添った。


 小ピットの顔からサーッと血の気が引いていく。


 英仏普の三大大国が胃袋で繋がったその瞬間、西の対仏包囲網は、名実ともに崩壊したのだ。


 諸公が圧倒され、言葉を失う中、マリー・アントワネットがナポレオンの前に出た。


 彼女は誰もが見惚れるような、この世の全ての闇を照らす温かい笑顔を浮かべ、円卓のすべての人々へ向けて、両手を優しく広げた。


「美味しい物で溢れた世界、一緒に作りませんか? ……美味しいものは、皆を笑顔にしてくれるんですよ?」


 その姿は、泥にまみれていようとも、まさに『豊穣の聖女』の名がふさわしい気高き美しさであった。


 オーストリア皇帝ヨーゼフ二世は妹の笑顔に涙を流し、メッテルニヒは調印書を静かに破り捨てた。


「……チッ。おめでたいお遊戯会だ」 


 ロシアの猛将クトゥーゾフだけは、苦い顔で席を立ち、漆黒のマントを翻して会議室から退散していった。


 ロシアの略奪が、フランスの豊穣の思想の前に、完全に孤立した瞬間であった。


 去り行くロシアの背中を見つめながら、ナポレオンはニヤリと、冷徹な勝利の笑みを浮かべた。


 彼の算術手帳には、イギリスの海、プロイセンの陸、ウィーンの音楽、そしてマリーの光を掛け合わせた、ロシア皇帝の焦土戦術をリアルタイムで上書き殲滅する、『常勝の勝ち筋』が、すでにびっしりと描き出されていた。


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