『ウィーン会議・踊る怪物の円卓』
黒く聳え立つシェーンブルン宮殿。
豪奢な大広間からは、冷害の飢えと恐怖を現実逃避で掻き消すかのように、華やかなワルツの旋律と貴族たちの高い笑い声が響いていた。
しかし、その奥にある最高会議室の空気は、人間の醜い欲望とエゴが渦巻く、泥沼の戦場と化していた。
「会議は踊る、されど一歩も進まず――」
円卓の議長席で、オーストリア皇帝ヨーゼフ二世は、各国の『怪物』たちが放つ圧倒的な威圧感と、目の前で繰り広げられる醜悪な利害のぶつかり合いに、激しい眩暈を覚えていた。
フランスを隔離するための『対仏包囲網』。
その調印書は目の前にある。しかし、列強諸国はフランスを倒す前から、その死体に群がるハイエナのように、豊穣の利権を巡って激しく罵り合っていた。
「我が大英帝国が資金のすべてを拠出したのだ! フランスが持つ大西洋の港湾と、あの爆走馬車による物流網の利権は、一国たりとも渡さん!」
イギリス首相小ピットが冷酷に机を叩けば、その正面でロシアの威光を背負う猛将クトゥーゾフが、隻眼の奥の凶光をぎらつかせて鼻で笑う。
「笑わせるな、若造。我がロシア帝国の圧倒的な軍事圧力がなければ、オーストリアとてこの包囲網を拒んでいただろう。フランスが独占するジャガイモの最新農業技術と苗は、すべて我が国が接収し、ウクライナの凍土へ植え替える!」
ロシアは裏でポーランドを無惨に蹂躙し、分断しながら、この会議室ではすました顔でフランスの富の強奪を主張しているのだ。その狡猾な二枚舌の前に、「我が国の飢えはどうなるのだ!」
「まずは目前の芋の備蓄を等分に分配せよ!」
と、スペインやドイツ諸邦の公使たちも己のサバイバルのために権利を主張し、会議室は怒号と罵声の坩堝と化していた。
「諸公、静粛に! 揉めている時間はない、早く調印を……!」
主催者であるオーストリアのメッテルニヒ伯爵は、激しい胃痛で脂汗を流しながら、必死に声を張り上げていた。
早く調印のペンを皇帝ヨーゼフ二世に握らせねば、すべてが手遅れになる。かつて前線でフランスの『豊穣』を文字通り体験したプロイセンの猛将ブルーヘル将軍だけは、腕を組んだまま、冷や汗を流して不気味な沈黙を貫いていた。
――同じ頃、ウィーンの冷たい長雨に濡れる路地裏。
宮殿の混乱が極限に達する数時間前、ナポレオンとマリー・アントワネットは、フェルセンの誘導によって一軒の古びた楽器工房へと足を踏み入れていた。
「待たせたな、ボナパルト閣下。……彼らが、東方の真実を知る者たちだ」
フェルセンの呼びかけに応じ、薄暗い工房の奥から立ち上がったのは、鋭い眼光を宿した十九歳の逞しい青年――のちの楽聖、若き日のベートーヴェンであった。
そしてその傍らには、東欧ポーランドの貴族の血を引き、冷害によって故郷を追われ、いまはベートーヴェンが心から敬愛するブローニング家の令嬢、エレオノーレが悲痛な面持ちで身を寄せていた。
「フランスの最高農政官、そして王妃陛下……。まさか、本当に来てくださるとは」
ベートーヴェンは不器用な一礼をすると、隣の少女の肩を優しく抱いた。その瞳には、世界の絶望を凝視するような、異様な輝きが宿っていた。
「冷害の雨の音のせいか、最近、私の耳は世界の音を拒むように遠のき始めている。だが……エレオノーレの故郷の悲鳴だけは、私のこの壊れかけた耳の奥に、どんな爆音よりも激しく響き続けているんだ」
耳の不調を訴える若き天才の言葉に、ナポレオンは息を呑んだ。
ベートーヴェンは史実よりも遥かに早く、世界の絶望に直面し、聴力を失いかけながらも楽聖としての覚醒を迎えていた。
「ウィーンの宮殿の怪物どもは、優雅にワルツを踊りながら、東方で起きている本物の地獄から目を背けている。だが、彼女の家族から届いた最期の便りは、人間の業を超えた凄惨なものだった。エレオノーレ、手紙を」
エレオノーレが、震える手で一枚の、血と泥に汚れた手紙をマリーへと差し出した。
「王妃陛下……。ロシアの兵隊たちは、私たちの国から食糧を奪うだけではありません。彼らは、明日を生きるための種モミも、冬を越すための服も、すべてを奪い去っていきました。抵抗した私の父は、目の前でコサックのサーベルに斬り伏せられ……村は、すべて家ごと生きたまま焼き払われたのです。いまポーランドは、文字通り剥き出しの餓死の坩堝。冷たい雨の中、子供たちが次々と凍りついた死体になって転がっています……っ」
少女の血を吐くような慟哭が、工房の空気を震わせる。
マリーはその汚れた手紙を胸に抱きしめ、アクアブルーの瞳から大粒の涙を流した。
「ああ……なんということ。ただの飢えではない……これは、力による無慈悲な虐殺ですわ……」
「……険しい山脈を越えてまでは来ない、か。吾輩の脳内数式が、これほど無惨に人間の狂気を見誤るとはな」
ナポレオンは算術手帳をきつく握りしめ、自身の『楽観』がもたらした一歩の遅れを、激しい悔恨とともにその隻眼に刻みつけた。ロシア皇帝のやっていることは、もはや生存戦略ではない。ただの暴力による略奪である。
ただ優しく飯を食わせるだけの『救済』では、あの狂気は絶対に止められない。
「ボナパルト」
ベートーヴェンが、その若き情熱の全てを瞳に宿し、ナポレオンの前に踏み出した。
「私の奏でるピアノの音など、あの飢え、凍え、殺されていく東欧の民の前には何の役にも立たない無力な雑音だ! 頼む、ボナパルト。お前のその圧倒的な算術と豊穣の力で、あの消されかけた国を、民の命を救ってくれ!!」
若き楽聖の、耳の奥からの魂を揺さぶる直訴。
ナポレオンは手帳をパチンと懐に収めると、頬の腫れを一度だけ強く叩き、ニヤリと、冷徹にして底なしの優しさを宿した不敵な笑みを浮かべた。
「いいだろう、若き音楽家よ。貴公のその祈り、確かに吾輩の辞書に書き込んだ。……ただのスープの配給ではあのロシアは壊せない。力尽くで無力化し、畑として耕し直すしかないな」
ナポレオンはマリー、そしてフェルセンを振り返る。
「マリー様、準備は良いですか。……メッテルニヒ、そして裏でポーランドを貪りながら円卓で踊り続けるロシアのクトゥーゾフ。怪物どものおめでたい調印式を、我らの数式でぶち壊しに行きましょう」
「ええ、ボナパルト。お兄様を、そしてオーストリアをロシアの恐怖から解放しに行きましょう!」
東方の凄惨な真実を血の足跡として刻み込んだフランス特使団は、ついに牙を剥いた。
最高会議室の壇上で、メッテルニヒが勝利を確信して包囲網の調印ペンを皇帝ヨーゼフ二世に握らせた、まさにその運命の瞬間に向かって、真の軍神の足音が近づいていた。




