『泥濘の欧州と、爆走する特使』
ヴェルサイユの宮殿を進発したフランス特命使節団は、総勢百名に及ぶ、まさに「動く要塞」であった。
先頭を行くのは、国王ルイ十六世がプロイセンの技術職人と共に鍛え上げた、鉄と蒸気の異形なる怪物――『爆走蒸気馬車二号・ポテトエキスプレス』
その後に数台の特等馬車が続き、左右をガチガチに固めるのは、猛将ランヌが率いる百騎の精鋭近衛騎兵。
さらに後方からは、菓子長アントナン・カレームが管理する、大量の芋と調理器具を積んだ重輜重馬車隊が、激しい蒸気と土煙を上げて並走していた。
フランス国境を越え、ドイツ諸邦の領内へと入った瞬間、特使たちの目に飛び込んできたのは、文字通りの「泥の地獄」であった。
冷害を伴う容赦なき長雨は、他国の街道をことごとく決壊させていた。
他国の物流は完全に麻痺している。
道中、略奪を恐れて国境を閉ざした群小諸侯の関所や、泥沼に車輪をとられて何日も立ち往生し、餓死者を出し始めている他国の兵糧馬車が、あちこちで腐臭を放っていた。
馬の足は泥に深く沈み、街道そのものが深い大泥沼と化している。
他国にとって、この気候の中での大軍の移動や物流は、物理的な不可能を意味していた。
だが、フランスの開墾輜重隊だけは、その地獄を文字通り蹂躙して突き進んだ。
ルイ十六世の魔改造した蒸気馬車は、幅広の鉄輪が泥濘を力尽くで踏み砕き、機関から吹き出す強烈な熱気が前方のぬかるみを一瞬で乾かしていく。
ナポレオンが事前に算出した水分量と摩擦係数の反比例数式に基づき、百騎の騎兵たちも一切の速度を落とすことなく、神速の行軍を維持していた。
激しく揺れる特等馬車の内部。外の豪雨が窓を叩く中、四人の頭脳が、小さな円卓を囲んで最後の外交戦略を練り上げていた。
「……オーストリア領内に入ったな。マリー様、心して聞いていただきたい」
生真面目な騎士フェルセンが、ウィーンの密偵から届いたばかりの悲痛な手紙を広げ、険しい顔で告げた。
「ウィーン宮殿のメッテルニヒ伯爵は、完全に正気を失っている。東からロシアの軍事圧力に脅され、西の我が国を隔離するための対仏包囲網をすでに書き上げている。……だが何より深刻なのは、貴女のご実家であるハプスブルク家の現状だ」
「……実家が? お兄様は、どうなさっているの?」
マリー・アントワネットが、息を呑んでフェルセンを見つめる。
「母君であるマリア・テレジア女帝が崩御されたのち、オーストリアは冷害による飢饉と、ロシアからの『従わねばウィーンを平らに踏み荒らす』という露骨な軍事脅迫によって完全に追い詰められている。現在の皇帝である貴女の兄、ヨーゼフ二世君主は、飢える民への心労とロシアの恐怖によって完全に精神を病み、いまやメッテルニヒら事なかれ主義の臣下たちの操り人形と化している。……我々がウィーンの門を潜れば、貴女の実の兄君の手によって、フランス包囲の調印書を突きつけられることになるだろう。これは完全な罠だ」
「そんな……お兄様が……。お母様が生涯をかけて愛し、守り抜いた我が祖国オーストリアが、飢えと恐怖でそこまで無惨な姿に……っ」
マリーは胸を押さえ、激しく動揺してその場に崩れかけそうになった。
ハプスブルクの誇り高き血統。飢えに喘ぎ、他国の暴力に怯え、実の妹である自分を裏切ってでも生き延びようとする実家の惨状。
マリーの瞳から、堪えきれない大粒の涙が溢れ、ドレスの上のジャガイモへと落ちた。
「マリー様。ウィーン行きは危険すぎます。今からでもフランスへ引き返すべきだ」
フェルセンが必死に訴えかけるが、マリーは泥のついたジャガイモを両手で強く、壊れそうなほど強く握りしめ、涙を拭って顔を上げた。
そのアクアブルーの瞳には、かつてない壮絶な覚悟の光が宿っていた。
「いいえ、引き返しません。たとえお兄様がロシアの刃に怯えて私を裏切ろうとも、私はマリア・テレジアの娘。ハプスブルクの血を引く者です。祖国の民を飢えの恐怖から救うためなら、実の兄をこの手で組み伏せてでも、お母様が遺したオーストリアの誇りを取り戻してみせます!」
震える声。しかしそこには、全人類を救わんとする『豊穣の聖女』としての、退路を断った気高き魂の叫びがあった。
「……素晴らしい覚悟だ、王妃陛下。そこまでハプスブルクの化石を愛しているのなら、吾輩の算術は、貴女の兄君を無力化する方向で数式を組み直すまでだ」
ナポレオンは腫れた頬をわずかにさすりながら、しかしその口元をニヤリと大胆不敵に歪めた。
一人で背負う傲慢さを捨て、王妃の情と覚悟をすべて受け止めた軍神の脳内に、新たな常勝の数式が描き出されていく。
「やつらが調印のペンを握り、フランスを孤立させたと確信したその瞬間に乱入する。カレーム、スープとカツレツの準備はできているな?」
同乗していた若き菓子長カレームが、車内調理器具の温度を確かめながら、不敵に首を縦に振った。
「いつでもいけます、閣下。言葉の刃だけで論破しても、飢えとプライドで凝り固まったウィーンの貴族どもは納得しません。メッテルニヒの調印書が破られたその瞬間に、私は彼らの喉元へ、我が国の芋粉を使った『サクサクのシュニッツェル』と、濃厚な『黄金ポレンタ』を叩き込みます。胃袋を満たし、かつ彼らの失われた伝統の味を我がフランスの豊穣で救済することで、二度と逆らえぬようにして見せましょう」
「頼むぞ、カレーム。西欧の包囲網を力で屈服させるのではない。彼らの飢えを救い、我が国の思想を伝える布告人(仲間)へと反転させる。それこそが、我がフランスの『誰も飢えさせない自立』の軌跡だ」
すべてが一つに噛み合ったフランスの思想が、泥濘の街道を猛烈な速度で突き進んでいく。
やがて、爆走馬車隊は、ついにハプスブルクの帝都――ウィーンの境界へと到達した。
窓の外には、冷害の雨に濡れ、生気を失って怯えるウィーンの民衆と、黒く聳え立つシェーンブルン宮殿の影。
ナポレオンは算術手帳をパチンと懐に収め、低く、最高にゾクゾクする声を響かせた。
「よし、全ての計算は完了した。マリー様、フェルセン。化石どものおめでたいお遊戯会を、我らの豊穣の数式で上書きしてやりましょう」
嵐の前の静けさを切り裂き、フランスの特使百名が、ついに運命のウィーンへと乗り込んだのである。




