『フランス事前会議・愛のビンタと軍神の戴冠』
ヴェルサイユ宮殿の最高会議室。
その円卓の中心には、ヨーロッパ全土の縮図が描かれた巨大な大陸地図が広げられていた。
緊迫した静寂が室内を支配する中、油まみれの職人服から、かろうじて国王の正装へと着替えたルイ十六世が、重々しく地図の一点を指差した。
「諸公、集まってもらったのは他でもない。今、我がフランスを取り巻く国際情勢は、これまでにない極限の危機を迎えている」
ルイ十六世の声が、広い会議室に響く。
「まず、イギリスとプロイセンを我が国の『豊穣』によって講和に導いた。だが、その陸海最強の二大国が無力化されたという事実に、周辺の列強諸国が底なしの恐怖を抱いてしまったのだ。スペイン、北イタリア、ドイツ諸邦――彼らは『単国ではフランスに勝てない』と絶望し、生き残るために一つにまとまり、我が国を完全に隔離・飢え殺しにするための『対仏包囲網』を結成し始めた。そして、オーストリアのメッテルニヒ伯爵がその大同盟の調印式として、『我がフランスの国家代表をウィーンへ呼び出す』という、事実上の出頭命令を送りつけてきた。……これが、西の現状だ」
ルイ十六世は一呼吸置き、今度は地図の東の端――ポーランドへと視線を移した。
その瞳には、深い悲痛が宿っている。
「だが、真の絶望は東にある。西欧が我が国への恐怖で大騒ぎになっているその決定的な隙を突き、ロシア帝国が牙を剥いた。冷害で自国の小麦が全滅したロシアは、飢えを凌ぐためにポーランドへの軍事侵攻と過酷な領土分割を強行したのだ。……届いた急報によれば、彼らは食糧を奪うだけでなく、抵抗する農民の村を焼き払い、女子供から最後の種モミまで奪い尽くしているという。西の包囲網、そして東の蹂躙。……この二つの嵐が、今、同時に我が国へ迫っている」
ルイ十六世の言葉に、大物貴族や将軍たちが一斉にざわめき立つ。
その円卓の最前列で、マリー・アントワネットが凛とした、しかしどこか震える声で立ち上がった。
「陛下。私たちは、攻め寄せる他国の人間を一人残らず殺し尽くしたいわけではありません。西の包囲網の国々も、東で蹂躙されるポーランドの民も、飢えの恐怖に狂わされているだけなのです。私たちは、世界を……一人残らず救いたい。もし可能であるならば、このすべての危機を解決し、全人類を飢えから救うための戦略を、ここで話し合いたいのです」
国王の号令の元、円卓を囲むナポレオンの部下たちが、即座に手元のデータを突き合わせながら激しい意見を交わし合い始めた。
だが、最高農政官の綿密なロジスティクスを誰よりも理解している参謀長ベルティエが、頭を抱えて悲鳴のような声をあげた。
「無茶です! カルパティア山脈の水分量と泥濘の摩擦係数を計算すれば、この極寒の長雨の中で大軍を動かし、ロシアの焦土へ兵糧を届けるなど、兵站の数式が絶対に成立しません! 不可能です!」
猛将ランヌもまた、拳で地図を叩いて声を荒らげる。
「おまけに西からは全ヨーロッパが包囲網を敷いて国境を完全に閉ざしているんだぞ! 陸路も海路も遮断された状態で、どうやって東のポーランドまで物資を運べというんだ! 単独での遠征など、物理的に不可能だ!」
将軍たちの「不可能」の合唱を力尽くで切り裂くように、会議室の重厚な扉がバンと音を立てて跳ね開いた。
その至高の理想論を切り裂くように、会議室の重厚な扉がバンと音を立てて跳ね開いた。
現れたのは、泥のついた不格好な農業士官の制服をまとった小柄な男――最高農政官ナポレオン・ボナパルトである。
彼の手には、びっしりと計算が書き殴られた算術手帳があった。
自身の地理的計算ミスによってロシアの初動を楽観視し、一歩遅れを取った焦りもあり、その隻眼にはいつにも増して傲慢で不遜な光が宿っていた。
「不可能、ですか。やれやれ、これだから凡人の脳みそが弾き出す数式は浅くて困る」
ナポレオンは大股で円卓へと歩み寄り、冷めた目で貴族たちを見下ろした。
「私は最高農政官の椅子にも、戦争の指揮官にも、これっぽっちの興味もない。本当は退職金をもらって、田舎の書庫に引きこもって、静かに歴史の研究でもしていたかったのだ。だが、目の前で問題を起こし、民が飢えようとしているのを見過ごせるほど、私の矜持は無責任にできていない」
ナポレオンのキレキレの演説が響き渡る中。
会議室の開いた扉の陰から、その様子をじっと見つめる人影があった。
ナポレオンの正妻、ジョセフィーヌである。
彼女は、夫が「退職金をもらって引きこもりたかった」などと嘯き、他者を見下すような傲慢な口調を重ねるたびに、美しく整った眉をどんどん不快そうにひそめていった。
その額には、明確なイライラの青筋が浮かび始めている。
そんな妻の怒気にも気づかず、ナポレオンは熱弁を振るい続ける。
「我が辞書に、そしてこのフランスに『無理・無茶・不可能』の文字が刻まれることは永遠にない! なぜなら、そんな奇跡はもう、とっくに三百五十年前のジャネット様たちが証明している。後はこのナポレオンに不可能などないと、ウィーンの化石どもに証明して見せるだけだ。やつらに思い知らせてやる。……喧嘩を売るのは相手を見てからにしろ、とな」
冷徹に言い放ち、フッと不敵な笑みを残して会議室を後にするナポレオン。
そのまま大股で廊下へと出た彼は、待ち構えていたジョセフィーヌの前に立つと、完璧に演説を決めた己の頭脳に陶酔しながら、【これ以上ないほどのドヤ顔】をバシッと突きつけた。
「どうだ? 吾輩の知略に、化石どもも言葉を失っていたぞ」
しかし、ジョセフィーヌの瞳は、笑うどころか冷徹なまでの怒りを宿して夫を睨みつけていた。
腕を組み、冷え切った声で吐き捨てる。
「……あんたさぁ、何さっきのキメ顔。歴史学者気取りで格好つけちゃって」
「なっ……! ジョセフィーヌ!? 完璧な計算に基づく完璧な演説だったはずだぞ!?」
ナポレオンのドヤ顔が一瞬で引き攣る。しかし彼の言葉は、ジョセフィーヌの低い、地を這うような本気の怒声によって遮られた。
「傲慢不遜! あんたは神か何かか!? 険しい山脈を越えてロシアは来ないと楽観視して、対応を遅らせたのはどこの誰だい!? そのせいでポーランドの子供たちがどれだけ残酷に家を焼かれ、飢えに泣いているか、その手帳の数字しか見えないあんたの目には映ってないのかい!?」
「それは……私の計算が――」
「黙って聞きなさい! あんたが今そこで好き勝手に天才ぶっていられるのは、油まみれで機械を作るルイ陛下や、ドレスを泥だらけにして芋を植えるマリー様、そして三百五十年前に命を捧げたジャネット様たちの奇跡と軌跡があるからじゃないのかい!? 一人で何でもかんでも自分一人で背負い込んで、他国を『化石』と見下して喧嘩を売るその姿は、今のフランスが目指す『誰も飢えさせない自立』の思想と、完全に違っているじゃないのかい!!」
ナポレオンは絶句した。妻の言葉は、彼が天才ゆえに目を瞑っていた「独裁者としての暴走」という醜い様を、正確に、深く突き刺していた。
「尚且つ、私にあんたのその偉そうな態度が気に入らない! しっかりしなさい!!」
パシーン――っ!!
静まり返った廊下に、乾いた凄まじい衝撃音が響き渡った。 ジョセフィーヌの手のひらが、ナポレオンの頬を容赦なく張り飛ばしたのだ。
さっきまでのドヤ顔はどこへやら、世界から軍神と拝まれる天才が、頬を赤く腫らし、ガタガタと震えながらその場に立ち尽くす。
最愛の妻に見限られることへの、計り知れない恐怖。
「あ、悪かった……! 私が悪かったから、それだけは……捨てないでくれぇぇぇジョセフィーヌぅぅぅ!!」
廊下に響き渡る、最高農政官の大号泣。
通りかかったフェルセンが生真面目な顔のまま見なかったことにしてそっと回れ右をする中、ジョセフィーヌはふう、と溜め息をつき、優しくナポレオンの涙を拭った。
「分かったから泣かないの。あんたの背中は、この私がずーっと支えてあげるからさ。……さあ、目が覚めたかい? それじゃ、テイク2だね。マリー様の『愛』を、あんたの最高の『兵站』で形にしてきなさい」
ナポレオンは、腫れた頬を抑えながら、ゆっくりと深呼吸をした。
ジョセフィーヌのビンタによって、己の傲慢な憑き物が完全に落ちていくのを感じていた。
一人で戦うのではない。ロシアの惨状は、ただの優しさでは救えない。
あの略奪の旧システムそのものを、力尽くで豊穣の新システムへ『上書き殲滅』するしかない――。
ナポレオンは不器用な咳払いを一つ。
「ごほんっう。んっん」
探るような咳払いののち、一人称を明確な覚悟の言葉――『吾輩』へと変え、再び会議室の重厚な扉を力強く跳ね開けた。
怯えていた貴族たちが一斉に振り返る。そこに入ってきたのは、先ほどの傲慢な小男ではない。全欧州の運命をその両肩に背負う覚悟を完了した、真の『軍神』の佇まいだった。
「――奴らが連合を組んで我が国に襲い掛かるというなら、その前に、彼らを仲間にしてみせましょう!」
その堂々たる咆哮に、会議室の空気が一瞬で熱狂へと反転した。
ナポレオンは算術手帳を机に叩きつけ、ルイ16世、そしてマリーを真っ直ぐに見据えた。
「無理無茶不可能、そんな言葉はこのフランスにふさわしくない! 無理無茶不可能は、すでに三百年前からの先人たちの奇跡と軌跡が証明している! 陛下が道を拓き、王妃が命を植え、そして吾輩がそれを最強の数式として形にする。我が国フランスに『無理・無茶・不可能』の文字が刻まれることは、未来永劫ない!!」
ナポレオンはニヤリと、今度は傲慢ではなく、絶対の信頼を込めた不敵な笑みを浮かべた。
「世界に教えてやりましょう。 ――吾輩の辞書に、不可能なぞ存在しない、と」
一瞬の静寂ののち、会議室の空気が爆発的な熱狂へと反転した。
「救ってやりましょう。さぁ、行きましょうか!」
その瞬間、ルイ16世は職人としての深い畏怖を瞳に宿し、マリー・アントワネットは聖女としての共鳴に胸を熱くさせて立ち上がった。
フランスはただの武力大国ではなく、世界を飢えから救う、思想と技術の巨大なシステムとして一つにまとまった。
全権を掌握したナポレオンの元、フランス軍、そしてカレームの料理兵站部隊は、罠と陰謀の渦巻くオーストリアの帝都――ウィーン会議へと向かって、爆走馬車隊を進発させる




