『カルパティアの楽観と、消されたポーランド』
大砲を一門も交えることなく、フランスの『芋とスープ』に胃袋を掴まれて無力化された、陸海最強の二大国――。その凶報は、全欧州の宮廷を震撼させていた。
「バカなッ! あのネルソンが、プロイセンのブルーヘルが、エサに釣られて屈服しただと!?」
ロンドンのダウニング街。イギリス首相小ピットは、激昂のあまり手元の報告書を灰皿へと叩きつけていた。
「フランスの狙いは武力による侵略ではない! 『豊穣』という名の不気味な洗脳だ! 大陸が奴らの経済網で一つになれば、島国の我が国は干からびて死ぬ! オーストリアへ金を送れ! スペインの親仏派を暗殺しろ! 金に糸目はつけるな、全列強で奴らを隔離・包囲するのだ!!」
その頃、プロイセンの首都ベルリンの兵舎では、将軍たちが青ざめた顔で泥付きのジャガイモを見つめていた。
「……前線の兵どもが、フランスから持ち帰ったこの『悪魔の果実』を崇め始めておる。ブルーヘル将軍に続けと、剣をクワに持ち替える脱走兵が後を絶たん。……我らの誇る強固な軍隊規律が、内側から腐っていく……!」
飢餓に喘ぐスペインやイタリアの宮廷でも、怒号が飛び交っていた。
「民衆がフランスのスープの噂を聞いて暴動を起こしそうだぞ!」
「ハプスブルクの貴族どもは我らから小麦を奪うが、フランスの聖女は泥まみれになって芋をくれると、街頭で煽動者が叫んでいる!」
「親仏派の首を刎ねろ! 今すぐ国境を閉鎖せよ!!」
――そして、その全てのパニックの矢面に立たされていたのが、オーストリアの宰相メッテルニヒ伯爵であった。
「……う、ぐ……っ」
ウィーン宮殿の宰相室。メッテルニヒは激しい胃痛に襲われ、机にしがみついていた。
彼の前には、イギリスからの「資金を断つぞ」という脅迫状、そして東方のロシアから届いた、生々しい蝋封の手紙が置かれていた。
『メッテルニヒよ。フランスの味方をするなら、次はウィーンを平らに踏み荒らす。今すぐ我が国の主導する対仏包囲網の席を用意せよ』
オーストリアは、フランス王妃マリー・アントワネットの実家である。
全面戦争などしたくない。しかし、拒めばロシアに滅ぼされ、受け入れればフランスのスープが国境を越えて平民を洗脳する。
「……生き残る道は一つ。我が国を舞台に『最高会談(ウィーン会議)』を開く。全列強の物量で、あの不気味なフランスを公式に包囲・隔離して見せる。……ハプスブルクの意地を賭けてな」
メッテルニヒが震える手で調印式の召集状にサインを刻んでいた、まさにその時――。
西欧が外交の机の上でパニックになっている隙を突き、カルパティア山脈の向こう側で、本物の地獄の蓋が開いた。
「――神の名において、この穀物はロシア帝国のものだ。不満があるなら凍えて死ね!」
極寒の長雨が叩きつけるポーランドの農村。
ロシアのコサック騎兵たちが、悲鳴をあげる農民を馬の蹄で踏みつけ、容赦なくサーベルで斬り伏せていた。
ウクライナの小麦が全滅し、自国の餓死者を減らすために強行された、過酷極まる略奪と領土分割。
「お父さん! お母さん!!」 泥水の中に放り出され、泣き叫ぶポーランドの子供たち。
ロシア兵たちは笑いながら、民家から冬を越すためのわずかな種モミや家畜を強奪し、拒む農民を家ごと生きたまま焼き殺していく。
西欧が書類の上で怯えている裏で、東欧は文字通り、人間の言葉では形容できない略奪の坩堝と化していた。
――同じ頃、ヴェルサイユ宮殿の地下書庫。
「……カルパティア山脈か」
ナポレオン・ボナパルトは、ランプの光の下で、手帳に書き留められたロシアの不穏な軍隊移動のデータを眺めていた。
「これほどの冷害と泥濘の中、あの険しい山脈を越えてロシアが大軍を動かす数式は成立しないな。冬将軍が来る前に、皇帝がそこまでのリスクを冒すはずがない」
それは、地形の水分量や兵站の限界を完璧に計算できる、天才ゆえの『楽観視』であった。
合理的に考えてロシアは動けない。そう判断したナポレオンは、手帳をパタンと閉じ、至福の有給休暇へと戻ってしまったのだ。
しかし、ロシアの狂気は、ナポレオンの合理的な算術を遥かに超えた残虐さで、すでにポーランドを地図から消し去ろうとしていた。
ナポレオンの、ほんの一歩の遅れ。
それが、東方の地獄を拡大させ、ヴェルサイユの会議室へと届く、デムーランのあの最悪の号外速報への秒読みとなっていたのである。




