『農政官ボナパルトの、ちっとも休めない休日』
西暦一七八九年。
イギリス海軍の不敗の英雄、ネルソン提督との奇妙極まる『フィッシュ・アンド・チップス講和』から数週間後。
フランス大革命の足音がどこからも聞こえないヴェルサイユ宮殿の地下深くには、極上の平愚と、かすかな珈琲の香りが満ちていた。
「……至福、だな」
薄暗いランプの光の陰で、泥のついた不格好な農業士官の制服をまとった小柄な青年――ナポレオン・ボナパルトは、小さく満足の溜め息を漏らした。
彼の手にあるのは、宮廷菓子職人の長アントナン・カレームが「引きこもり生活のお祝いに」と淹れてくれた、極上のビターコーヒー。
そして膝の上には、百年以上前に書かれた旧い歴史書。
イギリスとの大決戦を脳内数式だけで完全無力化してみせたナポレオンに、国王ルイ十六世から与えられたのは、念願の『二週間の有給休暇』だった。
ナポレオンは最高農政官の椅子にも、戦場の指揮官にも、これっぽっちの興味もなかった。
ただ少しばかり歴史を学ぶのが好きだった彼は、退職金をもらったら田舎の静かな書庫に引きこもり、一生を歴史の研究者として終えたいと本気で願っている、不本意な天才に過ぎない。
(よし。この二週間、私は一歩も外に出ない。誰がなんと言おうと、歴史の泥に沈むのだ)
固い決意とともに古書のページをめくろうとした、その瞬間だった。
地下書庫の重厚なオークの扉が、物理的な爆音とともに跳ね開いた。
「おーい! ここにいたかナポレオン殿! 探した、探したぞ!」
現れたのは、顔中を真っ黒な機械油で汚し、巨大なスパナを嬉しそうに振り回す男――フランス国王、ルイ十六世その人であった。
「へ、陛下……? なぜ一国の王が、油塗れで地下書庫のドアを蹴破っているのですか」
「そんな細かいことはいいんだ! ついに出来たんだよ、我がフランスの最新鋭技術の結晶、『爆走蒸気馬車二号・ポテトエキスプレス』の設計図がね!」
ルイ十六世はナポレオンの至高のコーヒーカップを強引に退けると、油まみれの大きな図面を机いっぱいに広げた。
「だが困ったことにね、シリンダーの圧力変化と、冷害のぬかるみを進むときの摩擦係数が、どうしても私の頭脳じゃ噛み合わんのだ! ナポレオン殿、ちょっとこれを見て物理算術で上書きしてくれないか!?」
「陛下。重ねて申し上げますが、私は今、有給休暇を満喫している歴史学者(の卵)なのですが」
「何を言うんだ、君のその頭脳は国家の財産だ! さあペンを取りたまえ!」
「拒否します。私は今、十四世紀のフランス農政における税制変化という、この蒸気機関の何倍も高尚なロジックと戦っている最中ですので、お引き取りを」
「冷たいなぁナポレオン殿! 一箇所だけでいいんだ、このピストンの往復運動の数式だけでも――」
ナポレオンが王のスパナを押し返そうと必死になっていると、さらに背後から華やかな、しかし絶望的に泥臭い風が吹き込んできた。
「あら、陛下! 抜け駆けはずるいですわ! ボナパルト、ちょうど良かったわ!」
現れたのは、プラチナブロンドの髪を揺らす王妃マリー・アントワネット。
臨むその義妹、マダム・エリザベートであった。
信じられないことに、二人とも最高級のシルクドレスを泥まみれに汚し、両手にはそれぞれ、今さっき土から掘り起こしたばかりの巨大な『ジャガイモ』を握りしめている。
「見てちょうだい、プチ・トリアノンの畑で採れた、新しいお芋よ! でもね、冷害の長雨のせいで貯蔵庫にカビが生えそうになってしまって……。風通しと湿度の最適な反比例の計算が分からなくなってしまったの。はい、これ現物よ!」
ドスン。 マリーは屈託のない聖女の笑みを浮かべ、ナポレオンが最も愛する百年前の古書の上に、水分をたっぷりと含んだ泥付きの巨大な芋を乱暴に置いた。
「王妃陛下……。私の愛する歴史書が、貴女の言う『命の塊』の土壌汚染によって文字通り茶色く染まっていくのですが」
「あら、パンがなければお芋を植えればいいのよ? 本の汚れなんて、大地の恵みに比べれば些細なことですわ!」
「些細ではありません。この本の修復にかかる時間とコストの計算を今ここで叩き出しましょうか?」
「まぁ、相変わらず屁理屈の天才ねぇ。エリザベート、あなたからも言ってちょうだい」
「ええ、ボナパルト閣下。お芋の水分含有量を割り出していただけないと、今夜の徹夜のポテトケーキ作りが始められないのです。どうか、私たちの戦友として知恵を貸してくださいな」
エリザベートまでが泥だらけの手を合わせて拝んでくる。ナポレオンは頭を抱えた。
「申し訳ない、ボナパルト閣下……」
王妃たちの背後から、生真面目な北欧貴族の騎士ハンス・アクセル・フォン・フェルセンが、いたたまれなさそうな顔で直立不動のまま入ってきた。
「お止めしようとしたのだが、王妃陛下の『お腹を空かせた民を待たせるわけにはいきませんわ!』という気高き熱意の前に、私の剣では防ぎきれなかった……」
「フェルセン。お前のその立派な剣は、王妃のイモ突撃を止めるためには鍛えられていないようだな。次からは盾を持ってこい」
ナポレオンは深いため息をつき、部屋の隅の長椅子で、呆れたようにリンゴの皮を剥いていた一人の女性に視線を向けた。
「……ジョセフィーヌ。お前からも何か言ってくれ。このままでは私の胃に穴が空く算術しかここには残らん」
ナポレオンの生涯唯一の正妻であり、彼のめんどくさがりな本質を誰よりも熟知する相棒――ジョセフィーヌは、ふいっとリンゴの切れ端をナポレオンの口に放り込んだ。
シャキ、と小気味いい音が書庫に響く。
「あんたねぇ。フランス中から『救国の軍神』だの『豊穣の知恵袋』だの拝まれてる最高農政官のくせに、薄暗い地下で引きこもってんじゃないわよ。ほら、これ」
ジョセフィーヌは、懐から一通のクシャクシャの手紙をナポレオンの机に放り投げた。
「イギリスのネルソンからよ。『カレームのスープを再現しようとしたらタラが全部溶けてイギリスのプライドが死んだ、至急数式を教えろ』ってさ。大英帝国の水兵たちが飯の不味さで暴動寸命なんだって。さっさと働きなさいな、ウチの不本意な天才さん?」
「……やれやれ。大英帝国の水兵どもは、人間の胃袋の容量だけでなく、魚の分子構造すら計算できないのか。魚のコラーゲンが溶け出す温度変化の熱力学数式くらい、海軍の規律に組み込んでおけと言いたい」
「文句を言わないの。はい、ルイ陛下はこっち、マリー様はそっち。あんた、さっさとその天才頭脳で全員分の計算を終わらせなさい」
ジョセフィーヌに背中をパシパシと叩かれ、ナポレオンはついに諦めて算術手帳を開いた。
ルイ16世の蒸気シリンダーの摩擦、マリーのイモ貯蔵庫の風通し、ネルソンの魚スープの熱管理——。
世界最強の頭脳が、ヴェルサイユの平和なドタバタを恐るべき速度で処理し始めた、その時だった。 バァァァン!! 本日二度目となる、扉の破壊音が地下書庫に鳴り響いた。
息を切らし、目に尋常ではない焦燥を宿した御用ジャーナリスト、カミーユ・デムーランが、一枚の号外速報を手に滑り込んできた。
「ほ、報告です! ヴェルサイユ会議室に国際緊急入電……!! 東方の巨頭、ロシア帝国が、神の名を騙り――隣国ポーランドへの無慈悲な軍事侵攻、および『領土分割』を強行しました! 近隣諸国の小麦をすべて差し押さえ、食糧の武器化を開始しています!!」
ピキリ、と。 珈琲の温かさに満ちていた地下書庫の空気が、一瞬にして極寒の硝煙の味へと凍りついた。
ナポレオンは、口の中のリンゴを静かに噛み砕き、ペンを置いた。
ゆっくりと椅子から立ち上がり、上着についたジャガイモの泥を、優しく、しかし確実に払い落とす。
その隻眼の奥の炎が、冷徹な『軍神』のそれへと切り替わっていく。
「……狂信の次は、略奪か。険しいカルパティア山脈を越えてまでは来ないと楽観視していたが……予想以上に酷いやり口だな、ロシアの皇帝は」
ナポレオンは懐から算術手帳を収めると、呆れたように、しかしその口元をニヤリと不敵に歪めて呟いた。
「やれやれ。休暇とは、一体何だったんだ」
そして、会議室のドアへ向かって歩き出しながら、低く、最高にゾクゾクする声を響かせる。
「……まあ、しかし。――やっと来たか。陛下、王妃陛下。会議室へ移動します。吾輩がいるフランスに、直せないものなど存在しないことを、世界に見せつけてやりましょう」




