『王妃の温室と、小さな宮廷研究会』
劇的な冷害がヨーロッパ全土の小麦を枯らし、陰鬱な長雨が続く一七八九年の初夏。
ヴェルサイユ宮殿の片隅にあるプチ・トリアノンの温室だけは、橙色の暖かなランプの光と、香ばしい焼き菓子の匂いに包まれていた。
「……ふふ、見てちょうだい、エリザベート。これが我が国を救う『大地の宝石』の花ですのよ」
王妃マリー・アントワネットは、細い指先で薄紫色の小さな花を愛おしそうになぞった。
それは、泥の中で黄金の命を実らせるジャガイモの花だった。
マリーはその一輪をそっと摘み取ると、自身のプラチナブロンドの髪飾りに仕込み、鏡を見て満足そうに微笑んだ。
「まあ、お姉様。とても可憐で素敵ですわ。これを今夜の夜会につけていかれるのですか?」
義妹のマダム・エリザベートが、エプロンを泥で汚しながら、嬉しそうに目を輝かせる。
「ええ。宮廷の貴族たちにこの芋を植えさせるには、命令するよりも、これが最先端のパリ・モードだと信じ込ませるのが一番早いですわ。
うっかり『悪魔の芋』なんて呼ぶ古い方がいたら、流行遅れの田舎者扱いにして差し上げましょう」
クスクスと笑い合う二人の王族の前に、白い職人服をまとった小柄な青年――宮廷菓子職人の長アントナン・カレームが、木箱に入ったいくつかの香辛料や食材を恭しく捧げて歩み寄った。
「王妃陛下、エリザベート様。髪飾りの仕込みは見事ですが、厨房の仕込みも完了いたしました。……さあ、本日の『各国料理研究会』を始めましょう」
温室の大きな木製テーブルの上には、フランスが誇るジャガイモを中心に、ヨーロッパ各国の伝統的な調味料や、わずかに手に入った他国の特産品が並べられていた。
カレームは、初代聖女ジャネットのスープの神髄を受け継ぐ料理人である。
彼は、フランスが飢えを脱するだけでなく、国境の向こうで飢えている周辺国の民をも救うため、夜な夜なこの二人と共に他国の食文化を研究していた。
「カレーム、今日はどの国の味を調べるの?」
マリーが椅子に座り、興味津々にテーブルを覗き込む。
「まずは、我が国を包囲しようとしているプロイセンと、海の向こうのイギリス、そしてオーストリア、スペイン、イタリアにございます。……陛下、これをご覧ください」
カレームは、小鍋の中でぐつぐつと煮える濃厚な白いスープを器に注いだ。
「これはプロイセンの農夫たちが愛する具だくさんスープ『アイントプフ』に、我が国の芋と、彼らの得意なソーセージを合わせたものです。
寒冷な地で泥を耕す兵たちの身体を、芯から温めるための味を意識しました」
エリザベートがスプーンで一口すくい、ふうふうと息を吹きかけて口に運ぶ。
その瞬間、少女の顔にパッと喜びが咲いた。
「美味しい……! コクが深くて、お肉の旨味がしっかりとスープに溶け込んでいますわ。これなら、あの厳格なプロイセンの兵隊さんたちも、一口で笑顔になります」
「ありがとうございます。ですが、問題はイギリスと東欧のポーランドにございます」
カレームは少し真剣な目になり、乾燥させた魚の切り身と、発酵したライ麦の粉を指差した。
「イギリスのネルソン提督とは魚と芋(フィッシュ&チップス)で講和を結びましたが、ロンドンの政治家たちは未だフランスの豊穣を恐れています。海を渡る兵たちのために、魚の油っぽさを消し、冷めてもサクサクとした食感が続く『衣服(衣)』の改良が必要です。そしてポーランドは……」
カレームの言葉を引き継ぐように、マリーが静かに、しかし悲痛に満ちた声で呟いた。
「ポーランドは、冷害で雑穀すら底を突き、いま最も過酷な飢えに喘いでいるわ。私の実家であるオーストリア宮廷も、東のロシアと西の我が国の板挟みで、生きた心地がしていないはず……」
マリーは、温室のガラス窓に打ち付ける冷たい雨を見つめた。
「カレーム。私たちはただ、フランスの芋を押し付けるだけではいけません。オーストリアには小麦の代わりに我が国の芋粉を使ったサクサクのシュニッツェルを。ポーランドの民には、彼らが愛するライ麦の酸味スープ(ジュレック)に、我が国の濃厚な芋のデンプンを隠し味として融合させた、新しいジュレックを届けるのです」
「……御意に。相手の故郷の味を認め、その伝統を豊穣の力で上書きして救う。それこそが、初代聖女様から続く教えにございますね」
カレームは深く一礼し、マリーの言葉を兵站の数式として手帳に書き留めていく。
王妃の全人類を救いたいという純真な願いと、それに応えようとする若き料理人の凄まじい執念。
フランス宮廷のこの小さな温室で、ヨーロッパのすべての国を胃袋から救うための『包囲救済戦略』のメニュー表が、着々と作り上げられていた。
「さあ、カレーム。次はイタリアのトウモロコシ粥に、オーストリアのチーズを混ぜる試作をしましょう。エリザベート、徹夜になりますわよ!」
「はい、お姉様! 喜んでお手伝いいたします!」
冷たい雨が世界を閉ざす中、温室の中だけは、未来の平和を信じる美しい笑い声と、温かいスープの湯気が絶えることなく満ちていた。
この数日後、この成果をすべて携えたナポレオンが、地下書庫での有給休暇へと入るのである。




