『大洋の軍神、あるいは生存の数式』
エギレット岬の頂。
イギリス軍が時間をかけて築き上げた不落の黒鉄城塞『小さなジブラルタル』。
その鉄壁の防衛線を前に、フランスの夜襲部隊は、凄まじい鉄の暴風と艦砲射撃の前に血の海に沈みかけていた。
ナポレオンの算術があろうとも、戦場を満たすのは、肉を抉る銃弾と、兵士たちの泥塗れの悲鳴という過酷な現実だった。
「一歩も引くな! 土嚢を積め! 閣下の数式をここで途絶えさせるな!!」
防衛隊長ダヴーが自ら軍刀を抜き、返り血と泥水を浴びて敵の突撃を肉体で食い止める。
ランヌの爆走馬車隊も、イギリス艦隊の正確無比な猛砲撃によって車軸をへし折られ、悲鳴を上げてぬかるみへと横転していく。
ベルティエが本陣で口から血を流すほど唇を噛み締め、裂けた指で羊皮紙を赤く染めながら命令書を更新し続けた、数時間の地獄のような死闘。
その泥臭い執念のバトンが、ついにイギリス軍の盲点であった断崖絶壁の頂上へと、カレームの巨大な蒸気大釜の群れを強行輸送し終えたのだ。
朝霧が立ち込める決戦の朝、ナポレオンがペンを指揮杖のように真っ直ぐに突きつけた。
「ベルティエ、時刻表通りに大釜の火を点けろ」
頂上に並んだ何百個もの大釜のハッチが一斉に開かれ、ジャガイモスープの濃厚な湯気が、爆発的な白い煙となって空へと吹き上がった。
それは豪雨の寒冷を瞬時に吹き飛ばし、イギリス軍の頭上から、港の出口を塞ぐようにして、トゥーロンの海全体を完璧に覆い尽くしていく。
大砲の音も、勝ち鬨も聞こえない、無言の算術による海の退路の完全封鎖。
「……おのれ、ボナパルト! 湯気ごときで、大英帝国の義務を閉ざせると思うな!」
旗艦『ヴィクトリー号』の艦橋。海の死神ネルソン提督は、抜身のサーベルを握り直し、地鳴りのような号令を爆発させた。
「ハーディ! 座礁を恐れるな! 船首を浅瀬に乗り上げてでも船体を傾けろ! 山頂の茹で釜どもへ向けて主砲を叩き込むぞ! 前へ進め!!」
「『我ら英国民は断じて奴隷(飢え)とはならない!!』」
壊血病の痛みに膝を震わせる五万の水兵たちが狂信の瞳で絶叫し、ヴィクトリー号は船底が岩床を削る凄まじい金属音を響かせながら、トゥーロンの浅瀬へと強引に巨体を乗り上げた。
船体が大きく傾き、割れた竜骨から浸水が始まる。
しかし、ネルソンは怯むことなく、自ら傾いた甲板へと飛び降りた。
「大英帝国の誇り高き水兵たちよ! 続け! 『英国は各員がその義務を尽くすことを期待する』!!」
荒天の空へと絶叫しながら、ネルソンは唯一残された左手でサーベルを構え、自ら先頭に立って、泥塗れの浅瀬の戦場へと単騎で突撃を開始した。
壊血病の痛みも、胃袋の飢えも、その執念の咆哮ですべて麻痺させて。
だが、元より片目と片腕を失い、満身創痍であった彼の肉体は、すでに限界をとうに超えていた。
激しい長雨の泥濘に足をすくわれ、血を吐きながら、大洋の軍神はついに力尽き、泥の海の中へと激しく膝を折って倒れ伏した。
二戦火の音が、静かに止んでいった。エギレット岬の頂から立ち上るスープの煙と、座礁したヴィクトリー号から吹き上がる黒煙が混ざり合い、戦場に不気味な静寂が訪れる。
大砲の撃ち合いは終わり、両軍の兵士たちは、泥と血に塗れた己の肉体の損耗を自覚し、ただ荒い息を吐いていた。
激しい戦熱が冷め、冷たい豪雨の音だけが響く戦場の真ん中。泥まみれになって倒れたネルソンは、ハーディに抱き起こされながら、消え入りそうな息を吐いていた。
その満身創痍の英雄の前に、高台からゆっくりと泥を踏み締め、ナポレオン・ボナパルトが歩み寄った。
二人の指揮官は、雨の中で真っ直ぐに見つめ合った。
ナポレオンは、手帳を静かに懐に収めると、目の前の死神へ向けて、冷徹だが底なしの優しさが宿る声を響かせた。
「イギリスの食糧事情を調べた。改善する用意があるが、聞くか? 聞くなら、こっちにきてみろ」
「……何だと?」
ネルソンが微かに隻眼を見開く。
「今うちの料理長が作ってる。話によると少なくともまずくはないらしい。出来たら私が先に食べる。そのあと食べてみるといい。材料は魚と芋だ。」
ナポレオンは手を差し伸べ、逃げ場のない絶対的な救済の数式を突きつけた。
「さあ、食ってみろ。それがお前らの国を救う、第一歩になるかもしれないのだからな」
武力による屈服ではなく、相手の国の事情に完璧に寄り添った、これ以上ない尊厳の救済。
「材料はお前の船と、他ので賄えるはずだ。そして芋は苗を渡すし、育て方も教える。――それでも、なお簒奪するというなら来るがいい。我らは逃げも隠れもせん。また救済して、同じ提案をするだけだ。それと我が国350年前から続く教えで何より大切にしてる言葉がある。剣を鍬に軍馬を道に・・初代聖女ジャネット・パテー様の言葉だ」
その言葉の重みが、戦火の冷めた静寂の中で、ネルソンの胸を深く、深く突き刺した。
「……勝てぬな。武力でも、思想でも……。我が大英帝国の義務は完全敗北した」
海の死神が、ついに敗北を認めて講和のサインを刻んだ。
その重厚な話し合いと調和の儀式が結ばれた、まさにその瞬間。背後に控えていた料理人カレームが、リバイアサンの蒸気圧を流用した超高温オイルフライヤーを起動した。
カレームは、イギリス軍が海で獲った白身魚と、フランスのジャガイモを、同時に熱油の中へ一気に放り込んだ。
ジュワァァァァァッ!!激しい長雨の音をかき消す、香ばしい衣のはじける音。スープの湯気すら上回る、濃厚で暴力的な油の美味い香りが、冷え切った戦場全体へと漂い始める。
カレームの手によって、揚げたての料理が、満身創痍のネルソンへと手渡された。
「我が国の芋と、貴殿らの誇る海の富を組み合わせた、陸と海の調和の味だ。これをお前たちの国で試してみろ」
ネルソンはガタガタと震える左手で、その未知の料理を口へと運んだ。
サクッ。衣が弾ける小気味よい音が、地中海の荒波の音を真っ二つに切り裂いた。
「うまいな 私はこれがその国の名産になるかもと思ってるまさに未来の味に感じるがどうだ?」
ナポレオンが先に食べて見せた。
壊血病の痛みに喘いでいたネルソンの体に、濃厚な白身魚の油と、フランスのジャガイモが持つ圧倒的な熱量が、電撃のように駆け巡った。
「……大英帝国の鉄と金貨では、この温かさは創れん。……これが、お前の言う『革命』の味か、ボナパルト」
ネルソンの唯一残された左眼から、大粒の涙が溢れ、黄金色の衣の上へと落ちた。大英帝国の背負う絶望が、ナポレオンの提示した調和によって、内側から溶かされていく。
イギリスの五万の水兵たちも、目の前に投げ配られたその揚げ物を口にした瞬間、壊血病の痛みを忘れ、狂ったように涙を流して貪り食った。
「そうだ剣や大砲じゃ民の腹は膨れん わが王妃陛下の言葉 パンがなければケーキを食べればいいのです!は小麦だけに固執せず可能性を探せということだとわたしは思う。そして見つけたなら迅速に民の元へ届ける必要がる。そのための改革だ。私は勝手にフランスの物流革命と呼んでるがね。」
ネルソンも頷き前を向いた。
その姿にもうサーベルを持ち命がけの特攻を仕掛ける気はなかった。
世界を胃袋から一つの家族へ繋ぎ直す、ここトゥーロンでのフランス独自の革命の勝利だった。
イギリスとの講和が成ったその夜。
最前線基地の天幕で、ナポレオンは薄暗いランプの光の下、フランス軍のどの部隊編成にも載っていない『一つの極秘の行軍ルート』を、ただ静かに、黙々と書き殴り始めた。
戻ってきた参謀長のベルティエがその異様な羊皮紙に目を留め、微かに眉をひそめる。
だが、ナポレオンは彼にすら一言も喋らず、中身を明かさぬまま、書き終えた羊皮紙を厳重に密印した。
そして、それを懐の最も深いポケットへと静かに、誰にも気づかれぬよう滑り込ませた。
ナポレオンは三角帽子を深く被り直し、息を吹きかけてランプの火を消した。
「さて、甘っちょろい理想主義者の王妃様……。あなたのドレスを世界最強の防波堤にするための仕込みは、すべて終わりましたよ」




