『算術の檻、あるいは山の裏の隠密物流』
フランスの西の玄関口、トゥーロン港。
そこに広がっていたのは、平和に慣れきったフランス軍の将兵たちが、声も出せずに立ち尽くすほどの完全なる絶望の光景であった。
国境を越え、数週間も前にこの地に先着していた海の死神、ネルソン提督。奴らはエギレット岬の全域を完全に占領し、大英帝国の圧倒的な製鉄技術で作られた百二十門の大砲を並べた、不落の鉄甲巨城――通称『小さなジブラルタル』をすでに完成させていたのだ。
山肌を覆う黒鉄の装甲板、および港の出口を完全にロックした砲口の群れ。
「……あんな化け物染みた城塞、正面から突撃すれば一瞬で全滅だ。フランスは海から干からびて終わるぞ」
最前線の凡将たちが恐怖に膝を震わせ、兵士たちの間に底なしの敗北感が伝染していく。
だが、その絶望の最前線基地に、キィィィと激しい金属音を響かせながら、一両の怪物が滑り込んできた。
国王ルイ十六世が自ら図面を引き、フランス独自の蒸気技術の粋を集めて組み上げた新型装甲移動列車『リバイアサン』。
時速四十キロという神速で闇を裂いて到着したその鉄の巨獣から、農業士官の外套を深く羽織った男が、泥を踏み締めて悠然と降り立った。
ナポレオン・ボナパルトである。周囲の絶望的な悲鳴を前に、ナポレオンはただ、気難しく鼻で笑い、手帳をパチンと閉じただけだった。
「何を狼狽えている、諸公。なるほど大英帝国の義務の結晶か、結構なことだ。奴らが時間をかけて完璧な檻を作ってくれたおかげで、こちらの補給線を繋ぐべき目的地が一点に絞られたわけだからな」
「な、何を血迷うかボナパルト! 敵はあのネルソンだぞ! 数の暴力と圧倒的な火力に押し潰されるのが分からんのか!」
なおも震える将軍たちを、ナポレオンは冷徹な、しかし絶対的な傲慢さを宿した眼光で一蹴した。
「案ずるな。我らには大天使ミカエル様の加護を受け、あの泥にまみれた白いドレスの王妃陛下がいる。何より、この私は生まれてからまだ、ただの一度も負けたことがない。ならばこの防衛救済戦、我が軍が負ける道理などどこにもない」
その微塵も揺るがぬ不敵な全肯定の言葉に、絶望に凍りついていた兵士たちの胸に、ドッと熱い火が灯る。
ナポレオンは、激しい列車の振動と石炭の熱気で酷い乗り物酔いに耐え、口から血を流すほど唇を噛み締めながらもペンを握り続ける参謀長ベルティエを振り返った。
「ベルティエ、十五分刻みの三系統時刻表を発動しろ。奴らは海のプロだ。だからこそ、あまりの険しさに馬車も大砲も登れるはずがないと、要塞の真ろ後ろにそびえ立つ道なき断崖絶壁(さらなる高地)を、寸分も警戒していない。奴らの算術の死角は、あの崖の裏側だ」
「へっ、だったら俺の出番ですね! 工兵どもを叩き起こせ! 奴らがフランス軍は手も足も出まいと高を括っている、この僅か数時間の空白の間に、我が国の最新鋭物流の凄みを見せつけてやる!」
突撃の権化ジャン・ランヌが、野性味溢れる不敵な笑みを浮かべて御者台へと飛び乗った。
山の裏側に広がるのは、長雨で底なしの泥沼と化した道なき崖だ。
しかし、そこに姿を現したのは、国王ルイ十六世率いる技術者たちが、車軸への負荷を計算し尽くして二重幅の車輪へと魔改造し、外周に鉄の滑り止めを巻き付けた『三百両の新型複輪蒸気馬車隊』であった。
「どきやがれ! これが我が国の最新鋭物流だ!!」
ランヌの怒号とともに、三百両の蒸気馬車が、底なしの泥沼の上を時速三十キロの神速で滑走し始めた。
豪雨の泥を全身に浴びながら、限界を超えた速度で手綱を捌き続けるランヌ。
その爆走を完璧な規律で支えていたのが、不敗の堅物ルイ=ニコラ・ダヴー率いる開墾防衛部隊であった。
「一歩も遅れるな。ランヌの馬車が通るための鉄路を、一秒で敷き詰めろ」
ダヴーの兵たちは、豪雨の中で自ら土嚢を崩し、馬車が崖を駆け上がるための即席の足場を、ミリ単位の規律で敷設していく。
泥流に足をすくわれ、皮膚が裂けて血が滲みながらも、誰一人として脱落しない鉄の規律。
イギリス軍が城塞の中で勝利を確信していた、まさにその深夜。フランスの国家規模の職人技術と、四人の怪物の執念の連動が、イギリスの盲点を突いて断崖絶壁の頂上(小さなジブラルタルの真上)へと、深夜のうちに数万食のスープ大釜(兵站)を隠密輸送し終えたのだ。
朝霧が立ち込める、決戦の朝。
小さなジブラルタルの城塞にいたイギリス兵たちが、ふと自分たちの真上にそびえ立つ山頂を見上げた瞬間、彼らの脳髄に凄まじい戦慄が走った。
自分たちが不落と信じた要塞の、さらに真上から、フランス軍の巨大な蒸気大釜が何百個も、見下ろすようにして不気味に並んでいたのだ。
ナポレオンはエギレット岬の頂から、眼下の海に浮かぶ無敵の旗艦ヴィクトリー号を冷徹に見下ろした。
「仕込みはすべて終わった。ベルティエ、時刻表通りに大釜の火を点けろ。ランヌ、ダヴー、配置に付け」
ナポレオンがペンを指揮杖のように真っ直ぐに突きつけた、その瞬間だった。
頂上に並んだ何百個もの巨大な蒸気大釜のハッチが一斉に開かれ、フランスの圧倒的な豊かさを象徴する、ジャガイモスープの濃厚な湯気が、爆発的な白い煙となって空へと吹き上がった。
それは豪雨の寒冷を瞬時に吹き飛ばし、イギリス軍の頭上から、港の出口を塞ぐようにしてトゥーロンの海全体を優しく、しかし覆い尽くしていく。
これぞ、鉄の大砲を一本の鍬に変え、血の海を黄金色の麦畑へと変えていく、真の『物流のフランス革命』
「さあ、海の死神ネルソン。お前たちの自慢の海の富と、我が国の陸の富を組み合わせよ。お前たちが悪魔になるというなら、こちらはその義務ごと、救済で包囲してやろう」




