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飢餓と戦うフランス歴史IF  作者: 癒されたい年頃


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『大洋の軍神、あるいは洗練された最強の怪物』】

 冷害の長雨は、地中海の青い海さえも、底なしの鉄色の絶望へと塗り潰していた。


 フランスの西の玄関口、トゥーロン港の沖合。そこに不気味な城塞のように鎮座する大英帝国艦隊の頂点で、旗艦『ヴィクトリー号』の重厚な蒸気ピストンが、ガタゴトと海を震わせる金属音を響かせていた。


 天井の低い艦橋のコンパートメント。窓外の激しい豪雨の音を背景に、満身創痍の英雄ネルソン提督は、軍服の右袖――先年の激戦で失った空袖の付け根を、焦燥のままに左手で強く押さえていた。


「……閣下。また、お身体が痛むのですか」背後から静かに声をかけたのは、長年の腹心であるハーディ艦長だった。


「気にするな、ハーディ。それより、我がヴィクトリー号の蒸気圧の推移はどうだ」


「最高出力を維持しています。無数のリベットで固められた黒鉄の装甲板、そして人間の身長を超える巨大な推進プロペラは、長雨の泥濘が流れ込むこの沿岸海域でも、時速三十キロの神速を寸分も落としません。風を無視して海を支配する、我が大英帝国の産業革命の結晶です」


 ハーディが誇らしげに報告するが、その顔は幽霊のように青白かった。


「だが、胃袋の兵站は破綻寸前です。海上封鎖が長期化し、船内の塩漬け肉は腐りかけ、壊血病の痛みに膝を震わせる兵が続出しています。乾パンの屑すら底を突きかけている。……ですが、兵たちは提督が共にいるなら地獄まで航海できると、狂信の瞳で水平線を見つめています」


「ありがたいな。だが、空腹では大砲の引き金は弾けない。ロンドンで金を握りしめたまま餓死していく労働者たちの二の舞だ。我らは飢えた狼だ、ハーディ。フランスのジャガイモの利権を強奪しなければ、明日には我が国が経済的に死ぬ」


 ネルソンは唯一残された左手で、卓上のトゥーロン港の海図を乱暴に指し示した。


 彼の指が止まったのは、正面の港ではなく、港の入り口を遮るように突き出た『エギレット岬』の頂であった。


「フランス軍の凡将どもは、港の中に閉じこもって我が英国の艦砲に怯えている。だが、ボナパルトという不気味な若造だけは違う。奴なら必ず、このエギレット岬の高地を狙ってくる」


「あの山頂を、ですか?」


「そうだ。あのすり鉢の底のような地形で、あの岬の頂に大砲を並べられれば、我がヴィクトリー号がどれほど強固な鉄甲艦であろうが、海の退路を完全封鎖され、港の中で全滅する。逃げ道を人質に取られるのだ」


 ネルソンは隻眼の奥の炎を最大に燃え上がらせ、卓上の海図をサーベルの柄で激しく叩いた。


「奴が数式を弾き終える前に、我が英国の誇る百二十門の大砲を、あの高地へ強行輸送して要塞化する。ダヴーが防衛線を敷く前に、ランヌの馬車が滑走してくる前に、我が軍の圧倒的な物量でエギレット岬を完全封鎖しろ。これぞ、我らが生き残るための唯一の正義だ」


 ネルソンは艦橋の窓を開け放ち、冷たい暴風雨が吹き込む中、甲板を埋め尽くす飢えた数千の水兵たちを見下ろした。


 そして、唯一残された左手でサーベルを曇天の空へと真っ直ぐに突き上げ、全艦隊を震わせる至高の号令を爆発させた。


「――全艦へ告ぐ! 信号旗を掲げよ! 『英国は各員がその義務を尽くすことを期待する(England expects that every man will do his duty)』!! 我が国の未来のために! 飢えた同胞の子供たちのために! お前たちのその命、その魂を、ブリタニアの栄光の海へ捧げよ!!」


 その瞬間、ヴィクトリー号をはじめとする何百隻もの鉄甲艦の煙突から、爆発的な白い蒸気と漆黒の煙が吹き上がった。


 巨大な推進プロペラが轟音を立てて荒波を真っ二つに引き裂き、数の暴力と蒸気の唸りが、トゥーロン港の奥深くへと一斉に牙を剥く。


「さあ、ボナパルト。お前の綺麗な算術ノートを、大英帝国の鉄と蒸気の物量で、根底から圧倒してやろう」



海の死神の冷徹な号令とともに、洗練された最強の怪物が、いよいよトゥーロンの海を窒息させる布陣へと動き出した。



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