『算術の引き金』
ノートルダム大聖堂での世紀の結婚式から、十日。
フランスが誇る自給率三百パーセントの超好景気は、ナポレオンとジョゼフィーヌの新しい家庭にも、これ以上ない豊かさと穏やかな時間をもたらしていた。
女の機嫌を取る数式はないと豪語していた算術オタクは、新居のベッドの真ん中をジョゼフィーヌの愛犬パグに占領され、足を噛まれて理屈っぽくボヤきながらも、彼女の纏う薔薇の香りに包まれる温かい日常を、確かに愛し始めていた。
だが、その至福の十日間という名の静寂は、ヴェルサイユ宮殿の薄暗い軍事議室の扉が閉ざされた瞬間、硝煙と鉄の緊張感へと完全に塗り替えられた。
巨大な円卓の中央に広げられたのは、フランスの西の玄関口、トゥーロン沖の海図だ。
その重苦しい静寂を破ったのは、作業着のまま、最新鋭の移動列車『リバイアサン』の機関室で自ら鉄を操り、煤と油にまみれて覚醒した国王ルイ十六世の、毅然とした声であった。「皆、よく聞け。我がフランスの目的は敵の『殲滅』ではない。
飢えに狂う周辺国の民の『救済』だ。彼らに必要なのは血を流すことではなく、彼らが自らの力で立ち上がるための『自立』である。
――三百五十年前の初代聖女ジャネットの教え、我が国が戦火の中で掲げ続けてきた『血を麦に』の合言葉のもとに、これより会議を始める」
国王の放った気高い理念に、居並ぶ諸侯や将軍たちが一斉に背筋を伸ばす。
だが、円卓の最奥で、農業士官の外套を深く羽織ったナポレオン・ボナパルトの瞳だけは、凍りつくような冷徹さを失っていなかった。
「ルイ陛下、ならびにマリー王妃陛下。その理念を掲げるならば、我々はこれから、周辺国の『生存の狂気』と戦わねばなりません」
ナポレオンの手帳が開かれ、前線の泥と夜徹の調査を終えた腹心たちが、次々と生々しい報告書を叩きつけていく。
参謀長ベルティエが、海図の上に黒い木駒を並べた。
複雑な運行計画の翻訳と計算のしすぎで、彼の胃はすでに悲鳴を上げている。
「他国との同盟を待たず、イギリス海軍単独での先行突撃です。ネルソン提督率いる無敵の艦隊・総隻数二百、兵力五万が、我が国のトゥーロン港へ向けて狂気的な速度で進軍中。数日中には、我が国の海は完全に封鎖されます。戦えば、我が方の港湾も灰になります」
「だが陛下、奴らの足元はすでに地獄です」
突撃隊長のランヌが、泥塗れの手帳を開いて身を乗り出した。不倫泥沼離婚のケリをつけるまでは絶対に死ねない男の眼光が光る。
「英国水兵の食事の配給記録ですがね、長期の封鎖のせいで塩漬け肉は腐りかけ、船内じゃ壊血病が爆発的に流行してやがる。
奴らは今、国家の未来のためでも、女王のためでもねえ。
『今日を生き残るため』に、飢えた狼となって突っ込んできてる。死に物狂いの猛狂です」
「イギリスは工場のために農地を潰した。冷害で小麦の輸入が途絶えた今、どれほど大量の金貨や鉄の大砲を作ろうが、物理的な『飯』をどこからも買えない。今すぐ我が国のジャガイモを強奪しなければ、国家が内側から崩壊する。奴らの異常な進軍速度の正体は、国家規模の『飢えへの恐怖』だ」
防衛隊長ダヴーがロンドンの物価推移表を卓上に広げ、冷たく言い放つ。
普段はベルティエに干し肉をあげるお母さん的な生真面目さを持つ男だが、その眼は不敗の堅物そのものであった。
「奴らが飢えた狼なら、これほど好都合なことはない!」 マリー側の文官貴族、オルレアン公ルイ・フィリップが声をあげた。
「現在のフランスは自給率三百パーセント。我が国の食糧備蓄を武器に、トゥーロン周辺の民を全て内陸へと避難させ、徹底的な『焦土(飯なき港)』にするのだ! 港に一粒のジャガイモもなければ、勝手に瓦解する!」
文官貴族たちから、フランスの圧倒的な食糧備蓄を盾にした時間稼ぎの防衛戦の知恵がふきつめる。
だが、その冷徹な防衛の布陣を前に、マリー王妃が静かに、しかし断固たる決意を秘めて一歩前に出た。
「……待ってください。避難をし、足止めをすれば、イギリスの水兵たちはただ飢えに狂い、戦況は悲惨を極めるばかりです。私がトゥーロンの前線へ赴き、ネルソン提督に直接、訴えかけます! 『侵略なんかしたくても、飢えない方法はあります!』と。我が国の技術を分かち合えば、彼らと戦う理由はなくなるはずです!」
三百五十年前のジャンヌから続く、あまりにも純粋なフランスの救済思想。
しかし、それをナポレオンの声が一瞬で切り裂いた。
「――却下します、王妃陛下」
その冷徹な声が、議室の空気を一瞬で凍りつかせた。
「前線は綺麗事を語る場所ではない。壊血病の痛みに膝を震わせ、それでも『断じて奴隷(飢え)とはならない!』と魂の絶叫を上げて突っ込んでくるネルソンの五万の隊列は、一国の王妃が声を枯らしたところで、止まりはしない。……彼らの生存本能の前に、ただ弾が肉を裂くだけです」
「ですが、ボナパルト……!」
「……ですが」
ナポレオンは手帳を一度閉じ、初めてマリーを真っ直ぐに見据えた。
新居のベッドをパグ犬に奪われてボヤいていた男の面影は、そこには微塵もなかった。
その気難しく陰気な顔に、微かな、しかし絶対的な信頼の光が宿る。
「『侵略しなくても、飢えない方法はある』……。その言葉を現実に通用する絶対の戦略にするのが、私の算術ですから。王妃陛下。その泥にまみれた白いドレスを、この私が――全欧州の嫉妬から民を護る『鉄壁の聖女』へ仕立て上げてみせましょう」
ナポレオンは手帳を黒板の前で叩きつけ、チョークを握り直した。
その手が動いた瞬間、彼の佇まいは消え去り、議室の空気を完全に支配する『算術の魔王』へと変貌した。
「基本戦術は、トゥーロンを一望できる高地の完全制圧を狙う。だが、大砲で敵の艦隊を沈めるのではない。マリー王妃の『焦土避難』によって港を空白にし、奴らの『略奪という算術』を完全に無効化する。略奪の手が空転し、飢餓の限界を迎えたネルソンの五万が、勝利を確信して港の奥深くへと隊列を崩したその瞬間――」
ナポレオンは不敵にニヤリと微笑み、黒板の海図を指し示した。
「ルイ陛下の移動列車『リバイアサン』が吐き出す、圧倒的な蒸気の煙をトゥーロン港に充満させ、敵の視界と退路を完全に遮断する! 大英帝国の誇る鉄と蒸気の物量を、我が方の近代物流の速度で上回るのだ。視界を奪われパニックに陥ったネルソンの正面に、ダヴーが防衛線を敷いて足を止め、ランヌの馬車隊が敵の武器だけを叩き落とす! そして――その高地から突きつけるのは、大砲の硝煙ではない」
ナポレオンの瞳が、狂気的なまでの救済の光を宿して輝く。
「カレームが開発した兵站の焼き菓子とスープ、数万食の『飯の照準』だ。イギリスよ、お前たちの自慢の海の富と、我が国の陸の富を組み合わせよ。大砲の引き金に手をかけたまま、飢えと病で死狂いとなっているネルソンの五万の胃袋に、この生存の数式を叩き込み、戦う理由そのものを内側から解体する。奴らが死に物狂いで『海を支配せよ』と叫ぶなら、我々は圧倒的な物量で『血を麦に』の奇跡を突きつける。一人の血も流さず、大英帝国を完全調和へと引きずり出す。……これが、お前たちの知恵と優しさを全て掛け合わせた、俺の戦略だ」
ナポレオンは一度言葉を切り、諸侯たちへ向けて不敵に、最高にシブく微笑みかけた。
「血を流して王の首を落とす退歩ではない。圧倒的な『食と物流』によって飢えの絶望から世界を救済する、真の変革――これより見せてやりましょうか。フランスの『革命』ってやつをね」 その一言に、議室の熱狂がさらに一段跳ね上がる。
「では、準備に行きます」
ナポレオンは扉を開け、豪雨の闇の中へと静かに消えていった。
懐の最も深いポケットの奥に、その高地へ数万の兵と大砲――敵の退路を完全封鎖するための圧倒的物流――そして飯を完全に隠密輸送するための『極秘の行軍ルート』をただ一人で不気味に眠らせたまま。
単独先行で迫り来る海の怪物ネルソンを、一人の血も流さずに完全無力化するため。
かつてジャネットが遺し、マリーが泥にまみれたドレスで証明した『全人類への愛』が、いま、ナポレオンの冷徹な近代算術という牙を得る。
これぞ、歴史の因果すら覆す、真の『フランス革命』。
この夜、天才の口から紡がれた『食と物流の革命』という不気味な言葉が、のちに全欧州の化け物たちを嫉妬と恐怖で狂わせ、未曾有の世界大戦を引き起こす引き金になるとは――この時、まだ誰も知らない。
飢えと死の神話を終わらせる大戦記が、いよいよ本格的に動き出す――。




