『薔薇の戴冠、泥より生まれし聖なる糧』
世紀の結婚式の前夜、ヴェルサイユ宮殿の一角にあるナポレオンの執務室は、歴史に残る大修羅場の空気に包まれていた。
原因は、パリの社交界で囁かれたジョゼフィーヌの不穏な男関係の噂。一秒に数万の行軍計算をこなす天才ナポレオンの脳細胞は、人生で初めて激しい嫉妬という名の計算エラーを起こし、ジョゼフィーヌを自室から閉め出して内側から鍵をガチリと掛けたのだ。
「もう離婚だ! 契約破棄だ! 完璧な私の算術ノートに、これ以上の不確定要素を組み込む理由はない! ベルティエ、今すぐ離縁の書類を作れ!」
部屋の中から気難しく怒鳴り散らす、未来の最高指揮官。ドアの外で待機させられている参謀長ベルティエは、パリの片思い相手から一通も返信が来ない自身の精神的飢餓感と合わさり、幽霊のように青白い顔で胃を押さえていた。
「閣下……。お気持ちは分かりますが、ドアの防衛線を強固に敷いたところで何も解決しません。それより私の恋文の補給線が――」
「うるさい! 女の機嫌を取る数式など、私の手帳には一行もないと言ったはずだ!」
ナポレオンが意地を張って机を叩いた、その時だった。
分厚いオーク材のドアの向こう側から、ジョゼフィーヌの、いつもより微かに震える涙混じりの声が響いた。
「……ボナパルト。社交界の噂なんて、私の人脈をあなたの戦いのために広げようとしていた、ただの誤解なのに。不器用で、数字しか見なくて、壁際でいつも拗ねているあなたのことが、ただ心配だっただけですわ……。そんなに私がお荷物なら、私は明日、おとなしくカリブの海へ帰りましょう」
ドア越しに伝わる、計算外の女の涙。その瞬間、ナポレオンの脳内の数式は完璧なまでに大崩壊を起こした。
彼は手帳を床に放り出し、部屋の内側で、「う、……ウオオオォォン!!! ジョゼフィーヌ、行かないでくれえええっ!!!」と、ヨーロッパを震撼させた天才の面影など微塵もないほど、みっともなく大号泣しながら鍵を開けてドアを引っ張った。
そこには、少し目を潤ませつつも、すべてが計算通りといった様子で艶やかに微笑むジョゼフィーヌが立っていた。
ナポレオンは真っ赤な顔で涙を拭い、彼女の肩を抱き寄せ、廊下で言葉を失っている腹心たちへ向けて、喉が張り裂けんばかりに大見得を切った。
「見ろ、ランヌ! ダヴー! 誰がなんと言おうと、私の手帳に刻まれる唯一の確定要素、私が生涯で選ぶ女性はジョゼフィーヌ、お前一人だけだ!!」
廊下の陰からワイングラスを片手に見ていた突撃隊長ランヌが、生真面目なダヴーの肩を激しく叩きながら、宮廷に響き渡るような大爆笑をあげた。
「おいダヴー、見たかよ閣下の方の情けねえ大号泣! よっしゃあ、ドアの防衛線が数秒で完全突破だ! 賭けは俺の勝ちだ、給与半分しっかりもらうぜ!」
「……閣下の数式ノートが、完全に薔薇の香りで水没したな」ダヴーが生真面目に呟き、その修羅場の熱量のまま、物語はノートルダム大聖堂の世紀の結婚式へと雪崩れ込んでいく。
パリの夜気を震わせる鐘の音が響き渡り、大聖堂の重厚な扉が開かれた。
白真珠のドレスを纏ったジョゼフィーヌと、まだ微かに目の周りが赤いナポレオンが固く手を握り合ってヴァージンロードを進む。
見届け人の国王ルイ十六世は満足そうに深く頷き、隣の二代目聖女マリー・アントワネット王妃は「あらあら、素敵な大号泣だったわね」と、楽しそうに扇子で口元を隠していた。
厳かな誓いの儀式が終わり、披露宴の幕が上がると、大聖堂の中央に巨大な蒸気式の爆走馬車が、物凄い湯気を上げて滑り込んできた。
ハッチから現れたのは、白い職人服をまとった天才料理人カレームだ。
彼は、初代聖女ジャネットが暗殺者を救ったスープの魂を継ぐ男。
カレームが恭しく金色のトレイを捧げ持つと、そこには、これまでの宮廷の華やかな砂糖菓子とは一線を画す、無骨で引き締まった一塊の食糧が並んでいた。
「ナポレオン殿、そしてジョゼフィーヌ様。我が祖先がスープで暗殺者の心を癒したように、私も新たな携行食、『ガトー・ド・ロジスティクス(兵站の焼き菓子)』を捧げます」
小麦の代わりにマリー王妃のジャガイモをベースにし、極限まで水分を飛ばして焼き上げられたその菓子は、雨天の泥沼でも絶対に腐らない。
かつ、軽い。一人の兵士が輜重の重量を増やさずに一ヶ月分を携行でき、爆走馬車から飢えた他国の民へ一斉に投げ配るのにも完璧な形状をしていた。
「素晴らしいな、カレーム。お前は戦う前に敵を無力化する最高の糧食を作ってみせた」
ナポレオンがその完璧な数値を脳内で弾き出し、ジョゼフィーヌと共にその菓子を掲げて、集まった民衆へ「分かち合いの配給」を宣言した、その瞬間だった。
三冷害の雲に閉ざされていたはずのステンドグラスの向こう側から、突如として、天を割るような圧倒的な黄金の光が濁流のように降り注いだ。
大天使ミカエルの聖なる気配が、確かにその場に降臨していた。
大天使の光は、泥まみれの大地を耕すクワを、油塗れの蒸気機関を、カレームの携行食を、そして情けなく泣きじゃくりながらも「お前一人を選ぶ」と誓い合ったナポレオンとジョゼフィーヌの姿を、眩いばかりの純白の加護で包み込んでいく。
「血を麦に、大砲を道に捧げよ」
「……初代の教えは、今も生きている」ナポレオンは天を見上げ、懐の中の、誰にも明かしていないたった一枚の『盤外の伏せ札』に、そっと愛おしそうに指先で触れた。
イギリスのネルソンが「ブリタニア万歳!」を叫び、鉄と蒸気の物量で海を埋め尽くして迫ってこようとも。
このフランスの地に宿る「分かち合う胃袋」の教えと、神の加護、そして背中を支えてくれるジョゼフィーヌへの愛がある限り、恐れるものなど何一つない。
「我がフランスの命の兵站に、神の絶対の加護を。……さあ、ネルソン。お前たちが悪魔になるというなら、こちらはその義務ごと、救済で包囲してやろう」
天界の黄金の光と、地上の人間の泥臭い愛と覚悟が、世紀の結婚式において完全に一つに結ばれた。




