引き裂かれた祈り
村の復興が始まって数週間。
元野盗たちと村人との間に、ようやく小さな笑顔が戻り始めた頃、その「悪夢」は地平線を黒く染めて現れた。
「ジャネット様! 敵襲です! 北の峠を越えて、三百を超える大野盗団がこちらに向かっています!」
斥候の悲痛な叫びに、村は一瞬でパニックに陥った。現れたのは、近隣の州をいくつも焼き滅ぼしてきた最凶の野盗団、通称『黒い牙』。
彼らは仕事にあぶれた哀れな兵士などではない。
戦争の混沌に乗じて殺戮と略奪を貪る、本物の狂人たちだった。
「奴らは話が通じる相手じゃない! ジャネット様、今度こそ俺たちに剣を持たせてください!」
パテーの名を共にする元野盗の男たちが、悔しさに歯を剥き出しにしてジャンヌに懇願する。
しかし、ジャネットは首を横に振った。
「いいえ。戦えば、あなたたちも、あの村の人たちも、また大勢死んでしまいます。……私が、行って話をしてきます」
「しかし……!」「大丈夫です。神様は、私にまだ命をくださいました。それに、彼らだって同じ人間です。きっと、戦わずに済む道があるはずです」
彼女はそう言い残すと、パテーの戦場からずっと大切に持っていた、古びたフランスの白旗を一本だけ手に取り、村の境界線へと歩き出した。
*
「おいおい、本当に一人で出てきやがったぞ。」
あの『オルレアンの小娘』がよォ!」地響きのような下卑た笑い声が、黒い軍勢から巻き起こる。
ジャネットは彼らの前に立ち、白旗を地面に突き立てた。
その瞳には、さっきまで村の子供たちに向けていたのと同じ、深い慈悲の涙が潤んでいた。
「皆さん。お願いです、武器を収めてください。これ以上、この大地の血を増やして何になりますか。飢えているなら、私たちの麦を分け合います。だから、どうか……」
「ハッ! 麦だと? 笑わせるな!」
引き裂くような罵声とともに、野盗の頭目が愛馬を蹴り、一瞬でジャネットとの距離を詰めた。
大男の放つ容赦のない拳が、ジャネットの小さな顔面を捉える。ドカ、と鈍い音がして、彼女の華奢な体は泥の中に吹き飛ばされた。
「ジャネット様――!?」
遠くで見守っていたパテーの兵士たちが叫び、武器を抜いて走り出す。
しかし、距離がありすぎる。
「聖女だか何だか知らねえが、ただのガキじゃねえか!」頭目は馬から飛び降りると、泥まみれになって倒れるジャネットの髪を掴み、無理やり引きずり起こした。その凶刃が、ジャネットの首筋に冷たく押し当てられる。
「いいか小娘、俺たちは奪うのが生業なんだよ。お前の綺麗な涙なんてなぁ、一文の得にもならねえんだ!」
頭目の濁った目が、ジャネットを、そして彼女の背後にある村を狙うように見つめる。
「おいお前ら! この聖女の目の前で、村の奴らを一人残らずぶち殺せ! こいつは俺たちの極上の戦利品だ!」その瞬間、ジャネットの中で何かが弾けた。話が通じない。この男を今ここで止めなければ、自分が走って、泥にまみれて、ようやく繋ぎ止めたあの村の優しい人たちが、子供たちが、またあの地獄の業火に焼かれる。
(嫌……それだけは、絶対に嫌……!)
「死ねよ、聖女様!」
頭目の濁った目が、勝ち誇ったように歪む。
喉元に冷たい刃が引かれた、まさにその刹那。ジャネットの指先が、泥の中で何か硬いものに触れた。
――男の腰から脱落した、予備の短剣。考えるより先に、身体が動いていた。
かつて数多の修羅場をくぐり抜け、死線を見極めてきた彼女の肉体が、寸分の狂いもなく一瞬の隙を捉える。
――グサリ。鈍く、重い感触が手のひらを通じて伝わった。
ジャネットが逆手に握り、突き出した短剣は、頭目の甲冑の隙間――首の継ぎ目へと、深く、深く吸い込まれていた。
「が、は……っ!?」
男の口から、どろりとした赤が溢れ出す。驚愕に見開かれた大男の巨体が、ジャネットの上にどさりと崩れ落ちた。
泥の上で二度、三度と不気味に痙攣し、やがて、完全に動きを止める。
「頭目が……やられた!? あの小娘、本当に化け物か!」
無敵と信じた頭目を一瞬で屠られ、野盗たちに恐慌が走る。
そこへ、怒り狂ったパテーの騎士たちがナタや剣を振るって突撃し、敵を蜘蛛の子を散らすように追い払っていった。
戦いは、一瞬で終わった。村は守られた。しかし――。
「あ……あ、あ……」
死体を退け、泥の中に座り込んだジャネットは、自分の両手を見つめて震えていた。
手のひらを濡らすのは、たった今自分が奪った命の、温かく、生々しい、鉄の匂いのする赤。
「私は……殺してしまった……」誰も殺さないと誓った。
名前を捨てて、今度こそ命を救うために生きると決めたのに。結局、自分の手は、あの胸糞悪い戦場にいた頃と何一つ変わらない。
ジャネットは血まみれの両手で顔を覆い、泥の中にうずくまった。
「ああああああああーーーーッ!!」引き裂かれた喉から、血を吐くような哭き声が響き渡る。それは先ほどまでの慈悲の涙ではない。
どれだけ足掻いても暴力から逃れられない、この世界の残酷さに打ちのめされた、絶望の慟哭だった。




