汚れなき誓い
村の復興が始まって数週間。
元野盗たちと村人との間に、ようやく小さな笑顔が戻り始めた頃、その「悪夢」は地平線を黒く染めて現れる。
「ジャネット様! 敵襲です! 北の峠を越えて、三百を超える大野盗団がこちらに向かっています!」
斥候の悲痛な叫びに、村は一瞬でパニックに陥った。現れたのは、近隣の州をいくつも焼き滅ぼしてきた最凶の野盗団、通称『黒い牙』。
彼らは仕事にあぶれた哀れな兵士などではない。
戦争の混沌に乗じて殺戮と略奪を貪る、本物の狂人たちだ。
「奴らは話が通じる相手じゃない! ジャネット様、今度こそ俺たちに剣を持たせてください!」
パテーの名を共にする元野盗の男たちが、悔しさに歯を剥き出しにしてジャンヌに懇願する。
しかし、ジャネットは首を横に振った。
「いいえ。戦えば、あなたたちも、あの村の人たちも、また大勢死んでしまいます。……私が、行って話をしてきます」
「しかし……!」
「大丈夫です。神様は、私にまた命をくださいました。それに、彼らだって同じ人間です。きっと、戦わずに済む道があるはずです」
彼女はそう言い残すと、パテーの戦場からずっと大切に持っていた、古びたフランスの白旗を一本だけ手に取り、村の境界線へと歩き出した。
「おいおい、本当に一人で出てきやがったぞ。」
あの『オルレアンの小娘』がよォ!」地響きのような下卑た笑い声が、黒い軍勢から巻き起こる。
ジャネットは彼らの前に立ち、白旗を地面に突き立てた。
その瞳には、さっきまで村の子供たちに向けていたのと同じ、深い慈悲の涙が潤んでいる。
「『黒い牙』の皆さん。お願いです、武器を収めてください。これ以上、この大地の血を増やして何になりますか。飢えているなら、私たちの麦を分け合います。だから、どうか……」
「ハッ! 麦だと? 笑わせるな!」
引き裂くような罵声とともに、野盗の頭目が愛馬を蹴り、一瞬でジャネットとの距離を詰める。
大男の放つ容赦のない拳が、ジャネットの小さな顔面を捉える。ドカ、と鈍い音がして、彼女の華奢な体は泥の中に吹き飛ばされる。
「ジャネット様――!?」
遠くで見守っていたパテーの兵士たちが叫び、武器を抜いて走り出す。
しかし、距離がありすぎる。
「聖女だか何だか知らねえが、ただのガキじゃねえか!」頭目は馬から飛び降りると、泥まみれになって倒れるジャネットの髪を掴み、無理やり引きずり起こした。その凶刃が、ジャネットの首筋に冷たく押し当てられる。
「いいか小娘、俺たちは奪うのが生業なんだよ。お前の綺麗な涙なんてなぁ、一文の得にもならねえんだ!」
頭目の濁った目が、ジャネットを、そして彼女の背後にある村を狙うように見つめる。
「おいお前ら! この聖女の目の前で、村の奴らを一人残らずぶち殺せ! こいつは俺たちの極上の戦利品だ!」
その瞬間、ジャネットの中で何かが弾けた。話が通じない。
この男を今ここで止めなければ、自分が走って、泥にまみれて、ようやく繋ぎ止めたあの村の優しい人たちが、子供たちが、またあの地獄の業火に焼かれる。
(嫌……それだけは、絶対に嫌……!)
「死ねよ、聖女様!」
頭目の濁った目が、勝ち誇ったように歪む。
喉元に冷たい刃が引かれた、まさにその刹那。ジャネットの指先が、泥の中で何か硬いものに触れる。
――男の腰から脱落した、予備の短剣。考えるより先に、身体が動く。
かつて数多の修羅場をくぐり抜け、死線を見極めてきた彼女の肉体が、寸分の狂いもなく一瞬の隙を捉える。
――グサリ。鈍く、重い感触が手のひらを通じて伝わる。
ジャネットが逆手に握り、突き出した短剣は、頭目の甲冑の隙間――首の継ぎ目へと、深く、深く吸い込まれていた。
「が、は……っ!?」
男の口から、どろりとした赤が溢れ出す。驚愕に見開かれた大男の巨体が、ジャネットの上にどさりと崩れ落ちた。
泥の上で二度、三度と不気味に痙攣し、やがて、完全に動きを止める。
「頭目が……やられた!? あの小娘、本当に化け物か!」
無敵と信じた頭目を一瞬で屠られ、『黒い牙』の野盗たちに恐慌が走る。
そこへ、怒り狂ったパテーの騎士たちがナタや剣を振るって突撃し、敵を蜘蛛の子を散らすように追い払っていった。
戦いは、一瞬で終わった。村は守られた。しかし――。
「あ……あ、あ……」
死体を退け、泥の中に座り込んだジャネットは、自分の両手を見つめて震えていた。
手のひらを濡らすのは、たった今自分が奪った命の、温かく、生々しい、鉄の匂いのする赤。
「私は……殺してしまった……」誰も殺さないと誓ったのに。
名前を捨てて、今度こそ命を救うために生きると決めたのに。
結局、自分の手は、あの胸糞悪い戦場にいた頃と何一つ変わらない。
ジャネットは血まみれの両手で顔を覆い、泥の中にうずくまった。
「ああああああああーーーーッ!!」
引き裂かれた喉から、血を吐くような哭き声が響き渡る。
それは先ほどまでの慈悲の涙ではない。
どれだけ足掻いても暴力から逃れられない、この世界の残酷さに打ちのめされた、絶望の慟哭だ。
血の匂いが立ち込める泥の中で、少女は震えていた。自分の手で短剣を突き立て、命を奪った男の亡骸。
その傍らで、ジャネットは激しい慟哭の後に、信じられない行動に出た。
彼女は、血に染まったその両手を、胸の前でそっと合わせたのだ。
「……主よ、どうかこの哀れな迷い子の魂を、暗闇から救い出してあげてください。生きていくために奪うしかなかった彼の罪を、どうか、私に免じて許してください……」
涙がボロボロと溢れ、血のついた頬を濡らしていく。
自分を殺そうとし、村を焼き尽くそうとした凶悪な男のために、彼女は全身全霊で「祈り」を捧げる。
その姿を、パテーの兵士たちも、物陰から恐る恐る見ていた村人たちも、言葉を失って見つめている。
「俺たちは……なんて情けない奴らだ」元野盗の頭目が、拳を地面に叩きつけた。
男たちの目からも、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「ジャネット様は、俺たちのために手を汚されたんだ。誰も殺したくないと泣いていたあのお方に、俺たちが、人殺しの刃を握らせちまったんだ!」
その瞬間、男たちの心の中で、生半可な忠誠を超えた「狂おしいほどの誓い」が燃え上がる。
「二度とあんな顔をさせてたまるか! 二度とジャネット様に剣を持たせるな!」
「次から敵が来たら、俺たちが盾になる! たえとこの命が尽きても、ジャネット様の魂だけは、俺たちが地獄の汚れから守り抜くんだ!」
その誓いは、兵士たちだけのものではなかった。怯えていた村人たちもまた、クワや鎌を握りしめ、兵士たちの隣に並んだ。
「俺たちもだ。あの子をもう、一人にはさせない。この村は、俺たちの手で守る!」
聖女の流した悲しみの涙が、さっきまで疑心暗鬼だった元野盗と村人たちの心を、完全に一つに結びつけたのだ。
それからの男たちの働きぶりは、凄まじいものだ。
敵襲に備えた強固な柵が村の周囲に張り巡らされ、昼夜を問わず見張りが立つ。
村は見事に復興を遂げ、黄金色の豊かな麦が実る頃には、そこは戦後フランスの奇跡のような理想郷が完成している。
ある夕暮れ時。美しく実った黄金の畑を見つめるジャネットの元に、仲間たちが集まっていく。
「ジャネット様、今年の収穫は大丈夫です。これでこの村が冬を越せない心配は、もうどこにもありませんよ」
誇らしげに胸を張る仲間たちに、ジャネットは心からの優しい笑みを向けた。
「ありがとうございます。みんなが頑張ってくれたおかげです」
しかし、彼女の瞳には、どこか遠くを見つめるような、静かな光が宿っていた。ジャネットはゆっくりと振り返り、仲間たちの目を見つめた。
「皆さんに、一つ、お願いがあります。……この村の暮らしが落ち着いたら、私を、あの場所へ連れて行ってくれませんか。――パテーの戦場です」
仲間たちの身体が、一瞬でこわばる。
「あそこは、私たちが勝つために、あまりにも多くの命を奪い、踏みにじった場所です。戦争は終わりました。だからこそ……私はあの大地へ行き、敵味方の区別なく、あそこで眠るすべての魂に、鎮魂の祈りを捧げたいのです」
「分かりました、ジャネット様。どこまでもお供いたします」
かつてはフランスを救う軍隊として進軍した男たちが、今度は、傷ついた魂を救う「祈りの旅団」として、再びあの伝説の戦場へと歩みを進める準備を始める。




