怪物の手足、鉄血の兵站線
ヴェルサイユから戻ったナポレオン・ボナパルトは、与えられた全権を使い、即座に自軍の特異な編制に着手した。
集められたのは、銃や大砲の扱いよりも、物資の計算や馬車の操縦、道の開墾に特化した輜重農業工兵隊とも呼ぶべき異形の集団だった。
「ボナパルト士官! 正気か! この戦力差でどうやって国境を守るというのだ!」
最前線基地の天幕。
ラファイエット侯爵から派遣された目付の将校が、泥に塗れた図面を叩き、焦燥の混ざった怒号をあげる。
将校が突きつけたのは、国境線に迫るプロイセン・オーストリア連合軍の、あまりにも冷酷な現実の数字だった。
「国境に迫るプロイセンの猛将ブルーヘル、そしてオーストリアの連合軍が動員した兵力は、合流すれば優に『五万二千』を超える! 大砲も百二十門を擁する精鋭だぞ!
対する我が方に与えられたのは、書類上こそ三万六千とあるが、冷害の飢えで戦えるのは実質『三万人』にも満たん!
しかも靴すら行き渡らず、まともに動かせる大砲はわずか『三十門』だ!
数の暴力と圧倒的な火力差で圧殺されるのが、お前には分からんのか!」
総数でも、装備の質でも完全に下回る、史実通りの過酷な戦力差。
しかし、ナポレオンは冷めた目で手元の算術手帳を開き、淡々と数字を返した。
「だから言ったはずだ、押し返せる状況ではない、敵が合流して五万の巨大な波になれば、我が軍に勝ち目はない。だが、合流する前に叩けば数字は変わる。ベルティエ。我が軍の動かせる蒸気馬車はわずか三百両。だが、カレームのスープと芋を冷まさずに、分断した敵の胃袋へ行き渡らせるには、一両あたり一回の一往復で『百六十人分』の配給が限界だ。ブルーヘルが湿原に足を踏み入れてから、敵の先遣隊の足が完全に止まるまでのタイムリミットは『わずか四時間』この歪な計算が解けるか?」
書類管理の天才ルイ=アレクサンドル・ベルティエは、感情の失せた目でペンを持ったまま、ナポレオンの提示した数字を冷たく見据えた。
「……容易いことです、閣下。長雨の湿度による蒸気機関の熱効率低下、および芋の自重による車軸への負荷を計算に含めます。第一補給拠点から前線まで、一両あたりの往復所要時間は長雨の泥を計算して四十七分。三百両を二十両ずつの十五部隊に細分化し、三分刻みのローテーションで回します。少しの遅れも許されませんが、私の命令書通りに御者が馬車を走らせれば、四時間で敵先遣隊の胃袋の包備救済は綺麗に成立します」
指示された過酷な数字のパズルを、その場で完璧に先回りして解いてみせるベルティエ。
ナポレオンの複雑な戦略を、現場の兵士が迷わず動ける実務の数字へと瞬時に翻訳していくその異常な事務処理能力に、目付の将校は唾を呑んだ。
「ランヌ、ダヴー。我々が向かう予想戦域は、アルプス以北の湿原地帯だ。
冷害による長雨で、道はすべて底なしの泥沼と化している。
敵の先遣部隊が一万五千。それが一度にあの湿原に入れば、その自重で土壌はどうなる?」
「……自ら底を掘り抜くことになるな。あの底なしの泥沼が、敵にとって最大の墓場になる」
不敗の堅物ルイ=ニコラ・ダヴーが、短く冷酷に頷いた。
「閣下。プロイセンのブルーヘルは飢えた狂戦士を先頭に、直線最短ルートで我が国の芋の備蓄庫を強奪しにくるはずです。私はその進軍路に、あえて配給の芋を小出しに見せびらかす、誘い込みの掘壕を敷き詰めます。敵の先遣一万五千が飢えのあまりその罠の泥沼へ足を踏み入れた瞬間、四方から鉄の規律で完全封鎖し、退路を断ちます。私の敷く開墾防衛線は、一歩も通しません」
「へっ、だったら俺の出番ですね。閣下、その泥沼、ただの馬車じゃ一発で車輪が沈んでおしまいです」
突撃の権化ジャン・ランヌが、野性味溢れる不敵な笑みを浮かべて地図を叩いた。
「すでに工兵どもを叩き起こして、三百両の蒸気馬車の車輪を二重幅に改造させ、外周に鉄の滑り止めを巻き付けさせています。これなら底なしの泥沼の上を、時速三十キロで滑走できる。ダヴーが敵の足を止めた外周から、三百両の爆走馬車で一気に包囲網を完成させてやりますよ」
ナポレオンの「足止めと防衛」という大方針を聞いただけで、敵の心理と物量を逆手に取った具体的な戦術をその場で逆提案してみせる腹心たち。
総数では完全に圧倒されている絶望の数字を前に、四人の怪物の思考と仕込みが、お互いの天才性を噛み合わせながら、着実に戦場を支配する準備を整えていく。
三人の腹心が、自らの戦略戦術を完全に咀嚼し、期待以上の刃となって応えたのを見届け、ナポレオンはゆっくりと立ち上がった。
天幕の隙間から、国境へ向けて続く激しい雨を見つめ、静かに、しかし指揮官としての冷徹な威厳をまとって最終作戦目標を告げる。
「我が軍の最終作戦目標を伝える。迫り来るプロイセンの飢えた大軍を、武力で殲滅することは断じてしない。お前たちが今言った通り、奴らを泥に沈め、足を止め、進退極まらせたその喉元に――我がフランスのポテトケーキと、カレームのスープを叩き込む。飢えという狂気から狼どもを解放し、我らのクワを持たせて畑を耕させる。それがこの戦いのすべてだ」
ナポレオンは振り返り、三人の怪物を鋭く射抜いた。
その脳裏には、ヴェルサイユの宮殿で、実家の裏切りに心を痛めながらも「世界を救いたい」と真っ直ぐに自分を見つめてきた、あの王妃マリー・アントワネットの姿があった。
「王妃様より……私たちは人を殺したいんじゃない、救いたいのです、とそのための知恵を請われた。この軍は、ただ撃退して終わるための暴力ではない。飢えた世界を胃袋から救い、自立させるための兵站部隊だ。これより始まる我が思考、お前たちの戦略戦術、それからすべての行動は、あのドレスを世界最強の防波堤に変えるためにある。……分かったな?」
ナポレオンの不敵にして冷徹な、しかし絶対的な覚悟に、ベルティエ、ランヌ、ダヴーの三人は、初めてこの陰気な天才への深い敬畏を抱き、拳を胸に当てて深く一礼した。
「「「御意!!」」」
神兵たちの狂気を冷徹な算術で包囲救済する、フランス無双の真の第一歩が、いま国境の泥濘へと刻まれる。




