王宮の審問、相容れぬ二つの天秤
硝煙と泥に塗れたトゥーロン要塞の戦いは、ひとまずの幕引きを迎えていた。
敵の先遣隊を大土砂崩れで文字通り泥に沈めた名もなき農業士官――。
ナポレオン・ボナパルトは、勝利の余韻に浸る間もなく、ヴェルサイユ宮殿の円卓会議室へと呼び出されていた。
「……ナポレオン、だったな」
円卓の最上席。
国王ルイ十六世が、射抜くような視線で、泥の落ちきっていない青年士官を見下ろす。
周囲を囲むのは、ラファイエット侯爵やドゥムーリエ将軍ら、フランス軍の重鎮たち。
外からの脅迫に消極的賛成へと回った実家オーストリアの苦境に、胸元で硬く手を握りしめて心を痛める王妃マリー・アントワネットの姿もあった。
「トゥーロンからの勝報は届いている。大砲を一門も使わず、敵の先遣隊を壊滅させたそうだな。……どのようにして敵を撃退したのか、その戦略戦術の全容をここで説明せよ」
ラファイエット侯爵が促す。
宮廷の誰もが、この若き天才から輝かしい大勝利の凱歌が聞けるものと期待の目を向けていた。
しかし、ナポレオンはただ、冷淡に肩をすくめただけだった。
「撃退、ですか。言葉が過ぎますな、諸公。……私はただ、敵の進軍の足を、数時間ほど『遅らせた』に過ぎません」
「……何だと?」
ドゥムーリエ将軍が眉をひそめる。
「何を言う。敵の先遣隊は生き埋めになり、敗退したと報告があったぞ」
「それはただの先遣隊、飢えに耐えかねて真っ先に飛び出してきた鉄砲玉です。本隊であるイギリスの海の怪物ネルソン、陸の至宝ウェリントン、プロイセンの死狂いの猛将ブルーヘルの大軍は、未だ無傷で国境の外に控えている」
ナポレオンは手元の算術手帳を開き、冷徹な数字を淡々と告げた。
「現在の冷害の規模、および周辺国の飢餓率から逆算すれば、敵が動員できる兵力は我がフランス軍の数倍。……ハッキリと言いましょう。今のフランスの防衛線は、どれほど優れた将軍が指揮を執ろうとも、物理的に『押し返せる状況』にはありません。遅かれ早かれ、我が国は世界からの嫉妬という、圧倒的な数の暴力で圧殺されます」
会議室の空気が、一瞬で凍りついた。
勝利の英雄として連れてこられたはずの小僧が、吐き捨てたのは、完全なる絶望の未来予測だった。
ラファイエットも、ドゥムーリエも、言葉を失って絶句している。
将軍たちからすれば、ナポレオンの提示した算術が、生々しい冷徹な現実であると理解できてしまうからこそ、余計に恐ろしかった。
「……化け物め」
砲兵の天才ケレルマン将軍が、乾いた声でこぼした。
周囲の貴族たちの目が、英雄を見る目から、得体の知れない恐ろしい怪物を見るものへと変わっていく。
の男の頭脳は、戦争を栄光や愛国心ではなく、ただの命の消費計算として処理している――その冷酷さに、誰もが肌を震わざるを得なかった。
*
重苦しい静寂が円卓を支配する中、静かに立ち上がったのは、王妃マリー・アントワネットだった。
そのアクアブルーの瞳に強い光を宿し、ナポレオンを真っ直ぐに見つめた。
「ナポレオン。……私は、あなたに問います」
凛とした、しかしどこか震える声が響く。
「私たちは、他国の人間を一人残らず殺し尽くしたいわけではありません。飢えに狂い、賊になるしかなかった哀れな人々を……世界を、救いたいのです。そのための知恵を、私たちに貸してください」
全人類を救おうとした、甘ったるい理想主義者の王妃。
ナポレオンは、マリーのその純真な言葉を、冷めた目で見つめ返した。
「救う、ですか。……過酷な現実を前に理想論は無力ですが、それを成し遂げるための戦略であれば、ここに用意がございます」
ナポレオンは手帳のページをめくり、国王ルイ十六世へと視線を移した。
「陛下、ならびに諸公。押し返せない大軍を無力化するための、大掛かりな作戦立案があります。……敵が『奪う必要』をなくせばいい。我がフランスの農業技術と物流網を、国境を越えて敵国へ丸ごと『輸出』するのです」
「技術の輸出だと?」
オルレアン公ルイ・フィリップが目を見開く。
「そうです。敵の狙いは我が国のジャガイモという命の塊だ。ならば、敵が合流して巨大な波になる前に、爆走馬車隊による圧倒的な速度で各国の戦域へ先回りする。基本は徹底した足止めと防衛。敵の猛攻をいなし、前線を行き詰まらせたその瞬間に、彼らの胃袋へアツアツのポテトケーキを叩き込むのです。『血を麦に。大砲を道に捧げよ。飢えをなくすやり方なら、我がフランスに請え』。そう告げて彼ら自身の生存を保証し、侵略を放棄させる。これこそが私の立てた、世界を丸ごと包囲救済する戦略戦術です」
ナポレオンが語る、戦う前に敵を内側から解体するあまりにも壮大な設計図。
その言葉に、マリーの瞳が優しく、しかし強く輝いた。
「……素晴らしいわ、ナポレオン。もし、我がフランスの食糧が欲しいなら、この生命力に溢れた命の恵みのことを周辺国の人々へ伝えてください。分けることもできます。もし、それ以上を望む不穏な者たちがいるのなら……彼らの冷えた体に、温かいスープを配っていただけませんか?」
「スープ、ですか」
ナポレオンが眉をひそめる。
マリーは微笑み、背後に控える技術の天才職人を振り返った。
「ええ。かつて初代聖女ジャネット様は、暗殺者に襲われても決して殺しはせず、温かいスープで彼らの心を溶かし、改心させたそうです。……ね、カレーム?」
王妃に名を呼ばれ、白い職人服をまとった天才料理人アントナン・カレームが、静かに、しかし誇らしげに一歩前に出た。
「我が先祖の話ですか……。その通りです、王妃陛下。そして、そのスープの神髄を受け継いだ私が、いま料理人としてここにいます。ナポレオン殿。あなたが前線への道を拓き、敵の足を止めてくださるなら、私はどんな極限の戦場であっても、数万の敵兵を涙させる最高のスープと兵站の焼き菓子を、爆走馬車に乗せて届けてみせましょう」
マリーの想いカレームの職人としての凄まじい覚悟。
ナポレオンの冷徹な算術に、フランスが誇る最高の「命の技術」が、ここで完全に融合した。
*
ナポレオンの不敵な作戦立案、およびカレームたちの覚悟を受け、国王ルイ十六世が深く、重く頷いた。
「……面白い。その『食の論理』による世界救済、我がフランスの国力を挙げて支援しよう。ナポレオンよ、そのために必要な『機械』や要望はあるか? 国王として、お前の望む物は何でも揃えてみせましょう」
「ならば陛下。私の立てた戦略戦術を、過酷な戦場において確実に実行させるための、私の手足となる腹心を求めます」
ナポレオンは冷徹に言い放ち、手元の名簿から、現在軍の底辺でくすぶっている「三人の若き士官」の名を指差した。
「一人、ルイ=アレクサンドル・ベルティエ。私の算術による複雑な行軍計画を素早く噛み砕き、数万の馬車隊へ迅速な命令書として現場へ『翻訳』できる、書類管理の逸材です」
「二人、ジャン・ランヌ。泥濘の道を恐れず、爆走馬車隊の先頭に立って敵の包囲を強行突破できる、突撃の権化」
「三人、ルイ=ニコラ・ダヴー。私の敷いた補給路を決して敵に渡さず、鉄の規律で防衛線を死守する、不敗の堅物」
ナポレオンが挙げたのは、平和なフランス軍において「変人」「融通の利かない頑固者」として出世コースから外されていた、名もなき若者たちだった。
だが、ナポレオンの目だけは、彼らが自分と同じ「新時代の怪物」であることを見抜いていた。
「……よかろう。ベルティエ、ランヌ、ダヴー。その三人の指揮権をすべてお前に委ねる」
国王ルイ十六世が、彼らの大抜擢を告げる全権委任状に、力強く署名した。
「ナポレオン。次の任務は、プロイセンの猛将ブルーヘルが飢えた大軍を率いて迫る、アルプス以北の『大陸国境線』の総指揮だ。我がフランスのすべての馬車と、最新鋭の蒸気技術をやる。行って、世界を驚かせてこい」
王宮の全権、最強の腹心、そして国王からの絶対的な信頼。
役者はすべてそろった。
ナポレオン・ボナパルトは最高全権委任状を懐に収め、ヴェルサイユの王妃と国王に向かって、初めて深く、冷徹な一礼を捧げた。
「御意、陛下。……プロイセンの飢えた狼どもを、文字通り胃袋から包囲救済して御覧に入れましょう」




