鉄の箱、怪物の旅路
ガタゴトと、重厚なピストンの駆動音を響かせながら、新型の蒸気馬車が国境への道を突き進んでいた。
天井の低い客車のコンパートメント。
外の激しい長雨の音を背景に、フランス軍の未来を担うことになった四人の怪物は、気まずい沈黙の中にいた。
「……おい、ベルティエ。お前さっきから一言も喋らねえな。書類が恋しいのか?」
退屈に耐えかねたジャン・ランヌが、野性味のある足を前の座席へ投げ出し、ナイフでジャガイモの皮を器用に剥きながら笑った。
「書類は恋しくありません。ただ、この新型機械の振動と、石炭の匂いで、微かに胃壁が悲鳴を上げているだけです」
書類管理の天才ルイ=アレクサンドル・ベルティエは、顔を真っ青にしながらも、膝の上の算術データを狂いなく整理し続けている。
しかし、その手帳の端から、一枚の美しい『女性の肖像画』がチラリと覗いていた。
ランヌがそれを見逃さず、目ざとく指をさす。
「へっ、嘘つけ。またそのヴィスコンティ夫人とかいう貴族の愛妻に宛てた、長ったらしい恋文の構成でも考えてたんだろ。
戦場にまで不倫相手の写真を持ち込むなよ、この色ボケ参謀」
「色ボケではありません。彼女からの返信の遅れは、私の精神の兵站崩壊を意味します。……ランヌ、お前こそパリに残してきたカミさんはどうした」
ベルティエの青白い顔からの反撃に、ランヌは一瞬、苦々しく顔を歪めてナイフの手を止めた。
「……チッ。あの女の話はするな。俺が前線にいる間に別の男を天幕に連れ込んでやがった。だからこそ、俺はこんな泥沼で死ぬわけにはいかねえんだよ。生きて帰って、あの悪女と盛大に慰謝料の剥ぎ取りのケリをつけてやらなきゃならねえからな!」
私生活でとんでもない泥沼を抱え、それが強烈な『負けられない理由』になっている突撃隊長。
その二人の生々しい応応酬を前に、ルイ=ニコラ_ダヴーが生真面目に窓外の沼地を睨みつけながら、ため息交じりに干し肉を差し出した。
「……お前たちの女性関係は、あまりにも戦術的に無秩序すぎる。やはり、規律正しく、静かで生真面目な女性を選ぶべきだ。……ほらベルティエ、これを噛んで胃を落ち着かせろ」
不敗の堅物と呼ばれる男の、相変わらずお母さんのような過保護な手際。
ランヌが再びゲラゲラと笑い出す。
「おいダヴー、お前は生真面目を通り越して女っ気ゼロの、ただの石仏だろ!なあ閣下、本当にこの色ボケと、童貞堅物で、プロイセンの五万の大軍に勝てるんですかい?」
ランヌが視線を向けた先。
座席の奥で、農業士官の外套を深く羽織ったナポレオン・ボナパルトは――。
先ほどから、特注の頑丈な木箱から次々と本を引っ張り出し、恐ろしい速度でページをめくっては、読み終えた本を躊躇なく馬車の窓から外の泥沼へと放り捨てていた。
すでに足元には数冊の本が転がり、窓の外には、ナポレオンが読み捨てた古代ローマの歴史書や哲学書が泥にまみれて置き去りにされている。
「……あの、閣下。少しよろしいですか」
さすがにその光景に耐えかねたベルティエが、引きつった声で尋ねた。
「閣下は、普段は何をなさっているのです?……いえ、その、戦場へ向かう道中でも、そんな風にずっと本を読み漁っておいでですが」
「仕事以外の時間は、すべて本だ。歴史、地理、宗教、科学。この世の先人たちが残した思考を脳に同期させている」
ナポレオンは、また一冊の分厚い戦術書を窓からポイと放り捨て、冷淡に言った。
「退屈しのぎではない。一度読めば内容はすべて脳内に記憶される。役に立たないと判断した本、あるいは記憶し終えた本を、輜重の重量を増やしてまで手元に残しておく理由はない」
「「「…………」」」
三人の腹心が、同時に深く引きつった顔で沈黙した。
本を娯楽ではなく、ただの「脳への情報補給」として消費し、終わればゴミのように道端に捨てる。
この男の趣味は、ただの読書ではなく、文字通りの『知識の略奪』だった。
戦う前から、この男の頭脳は人間とは生きている次元が違う――その底知れぬ変人っぷりに、一同は改めてドン引きせざるを得なかった。
「勝つのではない、世界を胃袋から救済するのだと、ヴェルサイユの王妃様はお仰せだ。……やれやれ、あの甘っちょろい理想主義者のお相手は、戦術計算の百倍は脳細胞を消耗する」
手帳をパチンと閉じ、気難しくもどこか人間味のあるボヤきをこぼす最高指揮官。
ナポレオンは、三人の引き気味な視線に気づく様子もなく、冷たく鼻で笑った。
「お前たちのその、女の機嫌を取るという不毛な数式は、私の算術手帳には一行も存在しない。そもそも、数字しか見ない堅物や、私のようなひねくれ者を気に入る奇特な女性がこの世にいれば、ぜひ一度お目にかかりたいものだな」
ナポレオンが放った、のちの運命を決定づける特大のフラグ。
ダヴーは生真面目に首を傾げ、ランヌは面白そうに身を乗り出した。
「へえ、大きく出ましたね、閣下。でも、パリの社交界じゃ、最近とびきり妖艶な未亡人が噂になってますぜ。確かに、ジョゼフィーヌとかいう……子連れだが、男を狂わせる南部の薔薇だ。この戦争が終わったら、閣下のそのひねくれた数式ノートが、その薔薇の香りで満たされる方に、俺は給与の半分を賭けますよ」
「不毛な賭けだな。子連れの未亡人をもてはやす暇があるなら、プロイセンの兵の消費カロリーを計算しろ。我が軍の狙いは、敵を殺すことではなく、彼らの足を沼に奪い、飢えを自覚させることだ。ランヌ、お前が率いる三百両の複輪蒸気馬車隊の速度が、一分でも遅れれば、敵は飢餓の狂気で我が国の備蓄庫を食い破る。雑談はそこまでだ」
「へっ、分かってますよ。俺の爆走馬車が、プロイセンの狼どもの鼻先を泥まみれにしてやります」
ランヌがナイフを鞘に収め、その瞳にギラリとした猟犬の光を宿した。
くだらない雑談の裏で、四人の頭脳は、すでに完全に最前線の沼地へと同期していた。
キィィィ、と蒸気ブレーキの激しい金属音が響き、馬車が完全に停止した。
国境の最前線兵站基地へ到着したのだ。
扉が開いた瞬間、客車の中に冷たい雨風と、緊迫した空気が流れ込んできた。
四人が一歩外へ踏み出した時、彼らの顔から日常のユルさは完全に消え去り、新時代の怪物としてのオンの顔へと切り替わっていた。
「ボナパルト閣下! 大変です!」
泥まみれの斥候兵が、天幕から転げるように走ってきた。
「国境を越えたプロイセンの先遣一万五千、我が方の誘い込みルートへ侵入!冷害の雨で緩んだ国境の湿原地帯――『大泥沼』へと足を踏み入れました!ブルーヘル本隊の三万七千も、その後方に続いて進軍中です!」
ついに、歴史の歯車が噛み合う音がした。
豪雨のなか、視線の向こうの泥沼を見つめ、ナポレオンは帽子を深く被り直し、冷徹な眼光を鋭く尖らせた。
「ベルティエ、十五分刻みの三系統時刻表を発動しろ。ダヴー、先遣一万五千が沼の底を掘り抜いた瞬間、四方から掘壕を完全封鎖しろ。ランヌ、蒸気馬車隊を率いて外周を爆走し、カレームのスープを前線へ運ぶ配給線を完成させるぞ」
ナポレオンはペンを指揮杖のように真っ直ぐに突きつけ、三人の腹心を射抜いた。
「これより、我が思考を現実にする。配置に付け!」
「「「御意!!」」」
味方三万対敵五万二千。
絶望的な戦力差を数字で圧倒する、――その歴史的な初戦の火蓋が、いま切って落とされた。




