甘美なる大逆転
「宮殿へ火を放て! フランスを我ら国民の手に取り戻すのだ!」
ヴェルサイユ宮殿の中庭。叩きつけるような激しい豪雨が石畳を打ち鳴らす中、カミーユ・デムーランは狂気的な勝利の笑みを浮かべ、松明を掲げた何万もの暴徒を煽り立てていた。
遮るものなき漆黒の闇、雷鳴、そして怒号。近衛兵の最終防衛線は決壊寸前。
憎悪の嵐が宮殿を文字通り飲み込もうとした、その時――。ギィィィ……と、宮殿の重い正面扉が、厳かに開け放たれた。
「――武器を引きなさい! そして、よく聞きなさい!」
轟く雷鳴をも突き破る、凛とした、しかしどこかお転婆な鈴の音のような声が響き渡った。
現れたのは、王妃マリー・アントワネットだった。その姿に、デムーランも、松明を掲げた暴徒たちも、一瞬にして息を呑み、動きを止めた。
彼女は、富の象徴である華美な輪飾りのドレスを脱ぎ捨てていた。身にまとっているのは、泥と雨に濡れた、動きやすいシンプルな白いドレス。
乱れたプラチナブロンドの髪を大雨になびかせ、アクアブルーの瞳に強い光を宿した彼女の手には、初代聖女ジャネット・パテーの聖剣が握られていた。
背後には、黄金のケーキが詰まった木箱を抱えたフェルセン伯爵が、彼女の盾として無言で付き従っている。
「騙されるな! 悪女に出てきたぞ! 叩き殺せ!」
デムーランが我に返って叫び、鉄パイプを掲げた荒くれ者たちが一斉にマリーへ飛びかかろうとした、その瞬間。マリーは逃げず、怯えず、躊躇なくその場に膝を突いた。大理石の床ではない。
激しい豪雨に抉られた、泥まみれのフランスの大地の上へ。王妃にあるまじき、ドレスを真っ黒に汚した「土下座」の姿に、中庭全体が水を打ったように静まり返る。マリーは地面に両手を突き、震える声で、しかし気高く中庭の民衆を見上げた。
「皆さん、申し訳ありません……! 私は、あなた方を飢えさせるために、この国に来たのではありません……!」
マリーの瞳から、大粒の、しかしどこまでも美しい涙がこぼれ落ち、雨の雫と混ざり合っていく。
「私は、お母様のいるオーストリアの民も、プロイセンの民も、私を家族として迎えてくれたフランスの皆さんも、誰一人として見捨てたくなかった……! だから、小麦が足りなくなってしまいました。これはすべて、私の、王妃としての知恵が足りなかったせいです! でも……!」
マリーは泥まみれのまま力強く立ち上がり、両手を大きく広げて、歴史を塗り替えるあの言葉を叫んだ。
「パンがなければ、ケーキを食べればいいのです!!」
「……はぁ!? 何をふざけたことを!」
デムーランが鼻で笑い、民衆の間にも「俺たちを馬鹿にしているのか!」と怒りの火が再暴発しかけた、その刹那。
マリーはフェルセンの持つ木箱から、焼き立ての黄金色のケーキを鷲掴みにし、民衆の目の前へと掲げた。
「ふざけてなどいませんわ! 小麦のパンがないなら、別の美味しいものでお腹を満たせばいいだけです! そのケーキが、いま、ここにあります! 毒など入っていませんわ、まずは食べてみなさいな!!」
マリーは自らそのケーキを小さく千切って口に含むと、驚く暴徒たちの手へ、次々と温かいケーキを押し付けていった。
「さあ、食べなさい! 食べれば分かりますわ!」
戸惑いながらも、飢えに耐えかねた一人の男がケーキを口に放り込む。
その瞬間、男の目が限界まで見開かれた。
サクッとした表面、そして中は驚くほどしっとりとして、栗のコクとジャガイモの優しい甘みが空腹の胃袋を一瞬で満たしていく。
「う、美味い……! なんだこれ、めちゃくちゃお腹が温かくなるぞ……!?」
「本当だ……パンよりずっと甘くて、元気が出る……!」
美味しいものは、人を一瞬で笑顔にする。
マリーが深夜の厨房で証明した奇跡が、いま、何万もの暴徒たちの心を一瞬で溶かしていく。
民衆が温かいケーキを貪り、次第にその場の殺気が消え、静かな落ち着きを取り戻していった。
民衆の手から、ぽろぽろと武器が地面へと崩れ落ちる。
その瞬間だった。ゴオオオオッ……!地を震わせる轟音と共に、荒れ狂っていた漆黒の雨雲が真っ二つに引き裂かれた。
天から差し込んできたのは、目も眩むような聖なる「黄金の光」だった。
それは豪雨を瞬時に消し飛ばし、泥にまみれた中庭全体を、そして微笑むマリーの姿を圧倒的な神聖さで包み込んでいく。
350年前、初代ジャネットの因縁が解けたあの日と同じ、フランスの夜明けを告げる光。
「おお……見ろ、光が……!」
「聖女様だ……。二代目の、俺たちの聖女様だ……!」
民衆は誰からともなく泥の中に膝を突き、王妃に向かって敬虔な感謝の祈りを捧げ始める。
マリーはその黄金の光を背に浴びながら、聖剣を力強く地面に突き立てた。
そして、完璧な光の中で、狼狽するカミーユ・デムーランと、宮廷の黒幕であるオルレアン公ルイ・フィリップの二人を冷徹に射抜いた。
「オルレアン公、そしてデムーラン。あなたたちは、一体何の不満があって、この騒動を起こしたのですか?」
「バ、馬鹿な……こんな奇跡が……」
デムーランは「言葉の刃」ではなく、圧倒的な「愛とケーキの味」に敗北してへたり込み、オルレアン公は己の歪んだ野望が完全に粉砕されたことを悟って絶句していた。
だが、オルレアン公はなおも悔しげに前を見据える。
「我らはあの泥臭い聖女ジャネットの『清貧』という名の呪縛に、350年間も退屈な暮らしを強制されてきたのだ! だから――」
「それは違いますわ!!」マリーの凛とした一喝が、オルレアン公の言葉を遮った。
「ジャネット様の教えは、私たちにひもじい思いをさせ、清貧を貫かせることではありません! 飢える心配のない、誰もが笑顔に溢れたフランスを夢見ていたからこそ、あの時、皆さんに小麦を配られたのですわ!」
マリーはふっと視線を落とし、自らの胸に手を当てて優しく独白した。
「……でも、分かりますわ。私自身、このフランスの、贅沢を悪とする真面目すぎる空気に、押しつぶされそうになっていましたもの。硬いパンと薄いスープだけの毎日に、本当は朝が来るのが怖くて、涙が出そうでしたわ。だから、私はお菓子を作りました。美味しいものを食べた時、人は一番良い笑顔になりますもの!」
泥にまみれた王妃の、あまりにも人間らしく、そして純真な告白に、民衆だけでなく、背後で見守っていたエリザベートや、引きこもっていた部屋から這い出てきたルイ16世の目からも涙が溢れていた。
「今回の食料危機だってそうですわ。小麦がダメでも、大地の下には私たちがまだ知らない、こんなに美味しい『命の塊』がいっぱい眠っていたのです。世界は広いですわ! 探せば、まだまだ私たちの知らない美味しいものが、星の数ほどあるはずです!」
マリーは再び顔を上げ、黄金の光の中で、この世で最も眩しい満開のひまわりのような笑顔を咲かせた。
「私は、新しい美味しいもので、このフランスを、世界中を満たしたい! それだけですわ! だから……もう一度、私と一緒に、新しい畑を耕してくれませんか?」
黄金の光に照らされた中庭には、もはや暴動の面影などどこにもなかった。あるのはただ、王妃への深い感謝と、美味しいもので満たされる新しい未来への、確かな希望の輝きだけだった。




