初代の遺産
王宮の外から響く怒号は、冷たい秋雨を切り裂いて一段と激しさを増していた。
「悪女を吊るせ!」という地鳴りのような叫びがヴェルサイユ宮殿を揺らす中、マリー・アントワネットは、背後を固めるフェルセン伯爵、そして義妹のエリザベートと共に、漆黒の闇に包まれた庭園「プチ・トリアノン」へと走っていた。
「お義姉様、あちらですわ!」可憐なエリザベートが雨に濡れた指で指し示したのは、普段は王族が立ち入ることのない、雑草の生い茂る古い倉庫の裏手だった。
そこには、マリーの勅命をうけて一足先に駆けつけていた菓子職人の長、アントナン・カレームが、一本の大きな鍬を手に立ち尽くしていた。
「王太子妃殿下……いや、王妃陛下。本当に、この『悪魔の芋』を掘り返すんですか?」
カレームの涼しげな目元には、かつてないほどの緊張が走っていた。
当時のヨーロッパにおいて、地中で不気味に肥大化するジャガイモは「ハンセン病の病原」
「悪魔の植物」と恐れられ、家畜の餌にすら敬遠される禁忌の作物だったからだ。
「カレーム、迷っている暇はありませんわ!」マリーは泥のぬかるみに躊躇なく膝を突いた。純白のモスリンのドレスが、一瞬で黒く汚れていく。
「初代ジャネット様の手記には、これが『地下の命の塊』だとハッキリ書かれていました。
350年前、あなたの先祖である元暗殺者の方々が、未来の私たちのために品種改良して遺してくれた、最後の希望の種なのですわ!」
マリーは自らの細い指を泥だらけにしながら、力任せに黒い土を掘り返した。
その剥き出しの純真さと行動力に、男たちの胸が激しく突き動かされる。
「フェルセン! カレーム! 突っ立っていないで、あなた方も手伝いなさいな!」
「……はっ。仰せのままに」フェルセンは北欧の騎士らしい端正な顔を綻ばせ、高級な雨合羽を脱ぎ捨てると、大剣を抜く代わりにクワを握り締めた。
「陛下が泥にまみれるならば、私はこの大地の底までお供しましょう」
雨が叩きつける中、4人の奇妙な共同作業が始まった。
フェルセンとカレームが力強く土を耕し、マリーとエリザベートが泥の中から次々と、ゴツゴツとした茶色いジャガイモの塊を掘り起こしていく。
エリザベートも、最初は泥の冷たさに小さく悲鳴を上げていたが、マリーの必死な背中を見るうちに、アクアブルーの瞳に兄譲りの強い慈悲の光を宿し、夢中で芋をカゴへと放り込んでいった。
「大収穫ですわ! さあ、カレーム、これを世界一甘美な奇跡に変える時間です!」
4人は泥だらけの籠を抱え、王宮の巨大な厨房へと逃げ込んだ。オルレアン公の息がかかった他の料理人たちが逃げ去り、静まり返った調理場。
カレームは掘り起こしたばかりのジャガイモを素早く洗い、大鍋で蒸し上げると、凄まじい手際でマッシュしていった。
「普通のパンを焼く小麦粉はもうありません。ですが、このジャガイモのペーストに、トリアノンで採れた栗の粉を混ぜ込み、ほんの少しの蜂蜜とバターで練り上げれば……」カレームの目が、職人としての、そして元暗殺者の末裔としての鋭い光を放つ。
「外にいる飢えた暴徒どもが、一瞬で正気を取り戻すほどの『極上のケーキ』を焼き上げてみせます!」
「頼みますわ、カレーム」マリーはカレームの隣に立ち、自らもエプロンを締めると、ジャガイモを捏ねる作業を手伝い始めた。
王妃自らが厨房で汗を流し、粉にまみれる姿。そのプラチナブロンドの髪は乱れ、白磁の肌には煤がついていたが、今の彼女は、ヴェルサイユのどの夜会よりも神聖で、圧倒的に美しかった。
フェルセンは暖炉の火を絶やさぬよう薪をくべ、エリザベートは焼き上がったケーキを丁寧に木箱へと詰めていく。
外からは、宮殿の窓ガラスが割れる不気味な音が絶え間なく響いていた。
デムーランの扇動によって、民衆の暴動はいよいよ限界に達しつつある。時間がなかった。
「焼き上がりました……!」
カレームの声と共に、オーブンから溢れ出たのは、香ばしく、どこまでも甘く幸福な、大地の香りが詰まった黄金色のケーキだった。
マリーはその温かいケーキを一つ手に取り、そっと口に運んだ。
サクッとした表面、そして中は驚くほどしっとりとして、栗のコクとジャガイモの優しい甘みが絶妙な歯車のように噛み合っている。
一切れの重量感が、空腹の胃袋を一瞬で満たしていくのが分かった。
「素晴らしいわ、カレーム! これなら……これなら、何万人もの私たちの『子供たち』をお腹いっぱいにできますわ!」
マリーは泥のついた顔をほころばせ、満面のひまわりのような笑顔を浮かべた。
その瞬間、厨房の重い扉が開き、ボロボロになった近衛兵が飛び込んできた。
「王妃陛下! 暴徒たちが中庭の最終防衛線を突破しました! デムーランが、今すぐ宮殿へ火を放てと民衆を煽っています!」
「ちょうど良いタイミングですわ」マリーはエプロンを外すと、乱れたプラチナブロンドの髪を気高くかき上げた。
その手には、350年前に初代聖女が残したとされる「ジャネット・パテーの聖剣」が、厳かに握られていた。
「フェルセン、その木箱を持って、私に続きなさい。……フランスの王妃が、迷える子供たちに極上のおやつを配りに行きますわ!」
ドス黒い悪意が渦巻く中庭へ向かって、二代目の聖女が、黄金のケーキを武器に、ついに打って出る。歴史の常識をすべてひっくり返す「甘美なる大逆転」の舞台が、いま整った。




