第8話 元勇者、人気配信者を助けたら面倒なことになった
腕の中の少女の体は、見た目から想像していた以上に軽く、その肩から伝わる呼吸もひどく浅かった。頬が赤く染まっているのは、突然見知らぬ男に抱き止められた羞恥だけが理由ではないのだろう。額には細かな汗が滲み、指先からは力が抜け、握っていた杖さえ石床へ落としかけている。魔力切れという言葉は知識として参考書に載っていたが、実際の症状を見る限り、異世界における魔力枯渇と大きな違いはなさそうだった。
「すみません。少しだけ、このままでいてください」
「え……?」
問い返す彼女の声には力がなく、俺は返事を待たずに背中と膝裏へ腕を回し、その体を抱き上げた。いわゆる横抱きという形になってしまったが、ふらついた人間を無理に歩かせるよりは安全である。異世界では傷ついた仲間を抱えて戦場から離脱した経験など数え切れないほどあったため、俺にとっては特別な行為ではなかったものの、配信を見ている人間たちにとってはそうではなかったらしく、視界の端を流れるコメントが一瞬で濁流のような勢いへ変わった。
『お姫様抱っこ!?』
『白銀ユナのファンが死ぬぞ』
『助け方まで主人公で草』
『本人めちゃくちゃ赤くなってる』
俺は騒がしいコメント欄を意識から追い出し、周囲の安全を確認してから壁際へ移動した。先ほど倒したオークたちはすでに動かなくなっているが、これだけの数が集まっていた以上、血と魔力の臭いに引き寄せられた別の魔物が現れる可能性もある。少女を壁へ背を預けさせる形で座らせると、俺はその前へ片膝をつき、呼吸や脈拍を確認した。
「怪我はありますか?」
「たぶん……ありません。魔力を使い切っただけです」
「なら、少し休めば動けそうですね」
異世界なら魔力回復薬を飲ませるところだが、この世界の薬品について知識のない俺が、勝手な判断で何かを口にさせるわけにはいかない。代わりに持参していた水を渡すと、彼女は両手で受け取りながら小さく礼を告げ、何度かに分けて慎重に飲み始めた。その様子を見届けてから、俺は改めて周囲へ視線を巡らせたが、広間の奥には壊れた配信用カメラと、砕けた魔石らしきものが散らばっているだけで、同行者らしき人影は見当たらなかった。
「一人で潜っていたんですか?」
「途中まではパーティーと一緒でした。でも、急に転移罠が発動して……気づいた時には、ここに一人で飛ばされていたんです」
なるほど。それなら登録者百五十万人を抱える有名配信者が、護衛も仲間もなく十体以上のオークに囲まれていた理由にも説明がつく。彼女は魔法系探索者として相当な実力者なのだろうが、遠距離攻撃を得意とする者が狭い空間で数に囲まれ、さらに魔力まで尽きれば不利になるのは当然だった。
「配信は?」
「カメラが壊されました。だから、今の私の状況を知っている人は……」
「俺の配信で三十二万人くらいが見ています」
「三十二万……?」
彼女は一瞬だけ呆けた顔をしたあと、俺の周囲を飛んでいる小型カメラへ視線を向け、ようやく自分たちが今も生配信中であることを理解したらしい。先ほどまで赤かった顔がさらに熱を持ったように染まり、両手で水筒を抱き締めながら俯いてしまう。
「……さっきのも?」
「抱き上げたところですか?」
「言わないでください……」
『かわいい』
『ユナ様が照れてる』
『切り抜き確定』
俺としては、負傷者を安全な場所へ運んだだけなのだが、どうやらこの世界では有名人を助けるだけでも大騒ぎになるらしい。勇者時代は王女を抱えて崩落する城から脱出したこともあるが、その時でさえこんな反応はされなかった。配信という文化は、戦闘よりも人間関係の方が注目されるのかもしれない。
「歩けるようになるまで、ここで待ちます。協会にも救助要請を出しておきましょう」
「いえ、それなら私の仲間を探してください」
顔を上げた少女の瞳には、先ほどまでの羞恥とは異なる強い焦りが浮かんでいた。自分もまだまともに動けない状態だというのに、最初に案じたのは仲間の安否らしい。少なくとも、人気だけを頼りに危険な場所へ潜る無責任な配信者ではなさそうだった。
「他にも転移した人が?」
「三人います。罠が発動する直前、全員が別々の方向へ吸い込まれました。この階層には、本来いるはずのない数のオークが出ています。もし同じ状況なら――」
少女が言葉を切った直後、広間のさらに奥から、石壁を震わせるほどの轟音が響いた。何か巨大なものが歩いている。足音だけで通常のオークとは比較にならない重量を感じさせ、その合間には、遠くから金属が砕ける音と、かすかな人間の叫び声まで混じっていた。
俺は立ち上がり、音の方向へ意識を集中させた。距離はおよそ八百メートル。複数の人間と、一体の大型魔物。しかも昨日戦ったミノタウロスより、明らかに魔力の圧が強い。
「仲間かもしれません」
「分かるんですか?」
「声が聞こえました」
「この距離で……?」
驚く彼女へ説明している時間はない。俺は小型カメラへ救助要請を送るよう音声指示を出し、少女の前へ背中を向けて腰を落とした。
「乗ってください」
「え?」
「置いていく方が危険です。それに、仲間の場所まで案内してもらいます」
彼女は迷った末、俺の肩へ細い腕を回した。背中に伝わる体温と、耳元で聞こえる遠慮がちな呼吸を意識しないようにしながら、俺は立ち上がって剣の柄へ手を添える。
『またイベント始まったぞ』
『初配信から展開が濃すぎる』
『今度は何が出るんだよ』
奥から響く咆哮は、通路全体を揺らしながら少しずつ近づいていた。
異世界の知識が役に立つかどうかは分からない。
だが、仲間を置いて逃げない人間を見捨てるほど、俺は勇者という生き方を忘れてはいなかった。
「しっかり掴まっていてください」
「はい……!」
俺は彼女を背負ったまま石床を蹴り、悲鳴の聞こえた闇の奥へと駆け出した。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。
応援が次回更新の励みになります!




