第6話 家の前が大変なことになっていた
翌朝。
「湊ー! ちょっと、大変だから起きなさい!」
一階から響いてきた、母さんの今までに聞いたこともないような焦った声で、俺はガバッと目を覚ました。
「ん……? なんだ……?」
ゆっくりと上半身を起こし、枕元に置いていたスマートフォンを引き寄せる。
現在の時刻は、午前八時十二分。
無理もない。昨日は人生初となるダンジョン探索を終えたあと、探索者協会の地下にある特別取り調べ室で、長時間にわたる熱烈な事情聴取を受けていたのだ。自宅に帰り着いたのは、日付が変わる直前。
そのせいもあって、頑強な肉体はともかく、頭の芯にはまだ多少の疲労が残っている。
ちなみに、一階層に突然現れたミノタウロスをどうやって倒したのかについては、協会の偉い人たちから何度も、何十回も同じ質問を繰り返された。
『天城さん、本当にあのC級魔物を、剣の一振りだけで倒したんですか?』
『はい』
『強力な超常スキルや、一時的に筋力を跳ね上げる魔薬を使用しましたか?』
『いいえ。スキルも使っていませんし、薬も飲んでいません』
『……では、どうやって?』
『ですから、間合いに入ったので、普通に軽く斬りました』
最終的に、事情聴取を担当していた管理職らしき男性から、胃に穴が開きそうなほど複雑で切ない顔をされた。
仕方のないことだ。
嘘偽りなく、本当に、普通に、無駄のない技術で斬り落としただけなのだから。
「湊! 早く下りてきて! 本当に大変なの!」
「今行くよ、母さん」
どうやら何か異常事態が起きているらしい。
俺はベッドから這い出て部屋を出ると、階段をトントンと急いで下りていった。
リビングに入ると、そこには父さんと母さんが揃って立ち尽くしていた。
二人して窓のカーテンをほんの数ミリだけ開き、怯えるように外の様子を窺っている。
「母さん、父さん、一体どうしたの?」
「どうしたのじゃないわよ、湊!」
母さんが、今にも泣き出しそうな、それでいて激しく混乱した顔で俺を振り返る。
「あれ、もしかして、あんたの連れてきたお友達なの……?」
「俺の?」
嫌な予感しかしない。
俺はそっと二人の隙間に割り込み、カーテンの隙間から、我が家の前の道路を覗き込んだ。
そして。
「……」
俺は無言で、そっと元の位置へとカーテンをぴったり閉じた。
「母さん」
「な、何? 湊」
「今すぐ、引っ越そう」
「昨日まで無職でコンビニの面接に落ちてた子が、寝ぼけたこと言わないで!」
あまりにも、ぐうの音も出ない正論だった。
だが、そんな悲しい現実逃避をしたくなるほど、とんでもない光景が視界に広がっていたのだ。
住宅街の狭い道路には、信じられないほど大勢の人間がひしめき合っていた。
肩に大型のテレビカメラを載せたテレビ局のクルーたち。
ボイスレコーダーやマイクを手にした記者。
高級そうなスーツを着て、何食わぬ顔でこちらの様子を窺う男女。
そしてなぜか、自分のスマートフォンを自撮り棒に固定し、大声でペラペラと喋り続けている、ユーチューバーらしき若者たちまで。
「視聴者の皆さん、ご覧ください! 私は現在、昨日、初配信でありながらC級魔物ミノタウロスを一撃で討伐した、超弩級の怪物新人探索者――天城湊の自宅前に突撃しております!」
外の喧騒から、マイクを通したようなよく響く大声が、リビングにまで漏れ聞こえてくる。
母さんが、恐る恐る俺の顔を覗き込んできた。
「湊。あんた、昨日ダンジョンで一体何をしたの?」
「何って……ただ、襲われていた人たちを助けるために、ミノタウロスって魔物を倒しただけだよ」
「その、みのたうろすって、そんなに凄いの?」
「俺も、昨日参考書を読むまで全く知らなかったよ」
「……」
母さんが、頭が痛そうにこめかみを押さえた。
本当に申し訳ない。俺だって、まさかたった一度の配信で、ここまで世界規模の大騒ぎに発展するとは微塵も思っていなかったのだ。
確かに昨日の初配信は、終了直前には同時接続者数が十二万人を超えていた。
だが、ネットの流行なんて一過性のもの。配信をブツッと切ってしまえば、翌朝にはみんな忘れて、少しずつ騒ぎも収まっていくものだと、現代社会を侮っていた。
どうやら、俺の認識はアステリオン大陸の牧歌的なスピード感のままだったらしい。
ポケットからスマートフォンを取り出す。
画面をスワイプすると、ラインや動画アプリの通知が『999+』という、見たこともないカンスト表示になっていた。
「……」
俺はそっと、電源ボタンを押して画面を暗転させた。
怖い。
魔王軍の精鋭十万騎に完全に包囲された時よりも、この静かに数字が増え続ける電子機器の方が、遥かに背筋が凍る。
「……とりあえず、湊。ご飯、食べる?」
母さんが、少しでも日常を取り戻そうとするように尋ねてきた。
「食べる。めちゃくちゃお腹空いてる」
どれほど異常な状況であっても、生きている限り腹は減るのだ。
俺はいつもの食卓の席につき、母さんが出してくれた炊きたての白米と、温かいワカメの味噌汁、そして香ばしく焼かれた鮭の塩焼きを食べ始めた。
家の外からは、いまだに騒がしい声が絶え間なく聞こえてくる。
「天城さん! 朝刊の取材です、一言お願いします!」
「我がクランとの専属契約のご相談を!」
「天城さーん! 生放送中でーす! 見てたら窓から手を振ってくださーい!」
自分に関する怒号を聞き流しながら、焼き鮭の皮を箸で剥ぎ取る朝食というのは、なかなか人生で二度と味わえない奇妙なものだった。
「湊」
俺の向かい側に座っていた父さんが、箸を置いて静かに口を開いた。
「……有名になったんだな、お前」
「……みたいだね。本人が一番困惑してるよ」
「つい昨日まで、駅前のコンビニの時給千百円の面接に落ちて、あんなに落ち込んでいたのになぁ」
「父さん、その古傷をほじくり返すのは本気でやめてくれ」
地味に、というか、心がチクチクとえぐられる。
もし、あのコンビニの店長が、俺が『ドラゴンを一撃で討伐できる戦闘力』を持っていることをあらかじめ知っていたら、採用してくれただろうか。
……いや、やっぱりレジ打ちや発注作業には一ミリも関係ないから、結局落とされていたな。
「でも」
父さんは、厳格な顔を少しだけ崩し、優しく目元を細めて笑った。
「お前が十年の空白を乗り越えて、自分の力でやりたいことを見つけられたなら、俺はそれでいいと思うぞ」
「父さん……」
「ただ、頼むから危ないことだけはしないでくれ。お前が帰ってきてくれただけで、俺たちは十分に幸せなんだからな」
「うん。……分かってる。絶対に、怪我はしないよ」
俺は短く答え、照れ隠しをするように味噌汁を口に運んだ。
なんだか、言葉にできないほど照れくさかった。
異世界にいた過酷な十年間。
戦火に包まれる平原で、一人で夜空を見上げながら、何度も何度もこの実家のリビングの風景を思い出していた。
明日には生きていないかもしれない、そう覚悟して眠りについた夜もあった。
だからこそ、こうして両親と同じテーブルを囲み、何気ない小言を言われながら朝食を食べているこの瞬間が、俺にとってはどんな栄誉よりも愛おしい。
世界を救った『伝説の勇者』と崇め奉られるより、国家予算並みの金貨を手にするよりも。
俺は、このささやかで温かい日本の日常を守りたい。
心の底から、そう誓った。
ピポパポ、ピポパポ――。
その時、静かなリビングにインターホンの硬い電子音が響き渡った。
「また、あの人たちかしら……」
母さんが、リビングのモニターを警戒するように見つめる。
俺が近づいて画面を確認すると、そこには押し寄せるマスコミの波の中に立つ、見覚えのある知的な女性の姿が映っていた。
「あれ? 黒瀬さんだ」
黒髪を後ろできちんとまとめ、キラリと眼鏡を光らせた女性。
昨日、俺の配信をサポートしてくれた探索者協会広報部の黒瀬葵さんだ。
「俺が玄関まで出てくるよ」
俺はサンダルを履き、鍵を開けて玄関のドアを少しだけ開けた。
「おはようございます、天城さん。騒がしい朝になってしまいましたね」
「おはようございます、黒瀬さん。本当に、えらいことになってますね……」
黒瀬さんは、昨日とまったく変わらない凛とした佇まいで立っていた。
だが、俺がドアを開けた瞬間、彼女の背後に控えていた記者たちが、獲物を見つけたハイエナのように一斉にこちらへ押し寄せようとする。
「天城さん! 昨日のミノタウロス討伐について!」
「異常な身体能力の秘密を教えてください!」
「無詠唱の回復魔法は、どのようなスキル構成なんですか!?」
黒瀬さんが、ゆっくりと首だけを後ろへ振り返った。
その切れ長の瞳が冷たく細められた。
ただそれだけの動作で、押し寄せていたプロの記者たちが、まるで見えない壁に衝突したかのようにピタリと足を止めた。
「静かに。ここは一般の居住地域です。これ以上の立ち入り、および近隣住民への迷惑行為が確認された場合、探索者協会として正式に法的措置を執らせていただきます」
彼女は完璧な営業スマイルを浮かべていた。
なのに、言葉の端々から漂う殺気のようなプレッシャーが凄まじい。
……魔王軍の幹部にも、こういう笑顔で部下を粛清するタイプの氷の魔術師がいたな。
そんなことを思い出しながら、俺は彼女を中へ招き入れた。
「どうぞ、中へ」
「失礼いたします」
黒瀬さんをリビングへ案内し、両親に『協会のサポート担当の方です』と紹介した後、俺たちはテーブルを挟んで向かい合って座った。
母さんが淹れてくれた緑茶を一口啜り、黒瀬さんは小さく息を吐く。
「大変なことになりましたね、天城さん」
「他人事みたいに言わないでください。全部、昨日黒瀬さんが言った通りの展開になってるじゃないですか」
「ええ、予想はしていました。……ですが、私の想定をも遥かに上回るスピードでしたね」
黒瀬さんは手元のタブレットを慣れた手つきで操作し、画面を俺の方へ向けた。
そこに表示されていた『数字』を見て、俺は完全に言葉を失った。
「昨日のあなたの初配信アーカイブは、一晩で現在三百八十万回再生を記録。そして、あなたの配信チャンネルの登録者数は、現時点で『四十二万人』を突破しています」
「よ、四十二万……!? 昨日アカウントを作ったばかりですよ?」
「はい。私も協会の歴史の中で、これほどの爆発的増加は見たことがありません」
黒瀬さんも、少しだけ困ったように眼鏡のブリッジを指先で押し上げた。
「さらに、あなたがミノタウロスを一撃で討伐し、直後に無詠唱で『ヒール』を使用した切り抜き動画は、各SNSで瞬く間に拡散。合計再生数は、現在把握できているだけでも二千万回を超えています」
「にせんまん……」
もはや、数字が大きすぎてピンとこない。
異世界アステリオンにいた人類の総人口よりも、遥かに多い数の人間が、俺のあのヘンテコな戦闘シーンを見たということだろうか。
「現在、天城さんのもとには、国内外の複数のテレビ局、大手探索者事務所、プロ配信者事務所、さらには武器メーカーやアパレルブランドから、山のようなオファーが殺到しています」
「そんなにたくさん?」
「はい。中には、所属するだけで『年間数千万円』の活動支援金を提示している、国内最大手の事務所もあります」
俺の脳が、一時的にフリーズした。
「年間、数千万……」
「ええ、そうです」
「……昨日、コンビニの時給千百円の面接に落とされた男に、ですか?」
「本当に、そこへの執着が凄まじいですね」
「かなり心の傷が深かったので」
つくづく、人生とは分からないものである。
昨日まで、面接官の中年男性に履歴書を突き返されて頭を抱えていた男が、今では数千万円単位の契約を目の前に提示されているのだ。
異世界転移すること自体よりも、こちらの現実の方がよっぽどファンタジーに見えてくる。
「それで、天城さん。これらのオファー、どうされますか?」
黒瀬さんが、値踏みするような真っ直ぐな視線で俺を見つめる。
俺は少しの間、静かに目を閉じて考えた。
お金は欲しい。
喉から手が出るほど欲しい。
けれど。
「今は、どことも契約は結びません。すべて断ってください」
俺がはっきりと告げると、黒瀬さんは驚いたように、眼鏡の奥の切れ長な目をわずかに細めた。
「……理由を、お聞きしてもよろしいですか? これほどの好条件、今を逃せば次があるとは限りませんが」
「俺はまだ、この世界のルールを何も知らないからです」
俺はポケットから、プラスチック製のチープなカードを取り出した。
F級、と印字された、昨日手に入れたばかりの初心者探索者証。
「俺は昨日、初めてこの世界のダンジョンに入って、初めて現代の魔物と戦いました。法律も、生態も、探索者としての常識も、まだ何も分かっていない。それなのに、いきなり大金を提示されてどこかの組織の看板を背負うのは、何かが違う気がするんです」
異世界では、俺は自分の意志に関係なく『勇者』という最強の看板を背負わされ、その役割を全うするためだけに十年間を費やした。
だからこそ――。
この第二の人生は、自分の足で、自分の責任で、一歩ずつ道を決めたいのだ。
「しばらくは、F級のまま、一人で地道に配信活動をやってみます」
「なるほど。……ブレませんね、天城さんは」
黒瀬さんは少しだけ黙った後、何かを確信したように深く頷いた。
「分かりました。広報部としても、あなたの意志を尊重し、不要な勧誘はすべてこちらでシャットアウトいたします。ですが、一つだけ、絶対に守っていただきたい約束があります」
「何ですか?」
「今後、次の配信を行う際は、ダンジョンに入る前に『必ず』私へ一報を入れてください」
「どうしてですか?」
「警備の要請が必要だからです。天城さん、今日のあなたの自宅前の様子を見れば分かるでしょう? もしあなたが『〇〇ダンジョンに行きます』と無防備に告知すれば、現地の入り口に昨日以上の野次馬やファンが押し寄せ、大パニックになります。それは非常に危険です」
「あ、確かに……」
一階層の狭いゲート前に、あのカメラを持った集団が押し寄せるのを想像し、俺はゾッとした。
「分かりました。配信の直前には、必ず黒瀬さんに連絡します」
「結構です。……ところで」
黒瀬さんが、スッとタブレットに視線を落とした。
「次の配信のご予定は、いつ頃を想定されていますか?」
「今日です」
「……」
本日五回目となる、重苦しい『静寂』がリビングに落ちた。
なぜだろう。
最近、俺が当たり前のことを言うたびに、周囲の大人が石のように黙り込む気がする。
「……今日、ですか?」
「はい。何か問題でも?」
「昨日、あのミノタウロスと命懸けの死闘を繰り広げたばかりですよね?」
「いや、一撃でサクッと終わったので、体力も魔力もまったく消費してないです。すこぶる元気です」
「そういうフィジカルの問題を言っているのではありません。……はぁ」
黒瀬さんは、美しく整った顔を崩して、本日最大級の深いため息を吐いた。
「……それで、どこのダンジョンへ行くおつもりですか?」
「まだ具体的には決めてないです。新宿第八ダンジョンは、昨日のイレギュラーの調査でしばらく閉鎖されるんですよね?」
「ええ、現在は立ち入り禁止です。でしたら、まったく別の場所にしてください」
それなら仕方がない。
俺はスマートフォンで、東京近郊の初心者向け低階層ダンジョンを素早く検索した。
そして、画面をスクロールする俺の目に、一つの懐かしい名前が留まった。
「――『渋谷第三ダンジョン』」
俺が帰還した日、ベンチで初めて見た、あのダンジョン配信の舞台。
青年がゴブリンに棍棒でベチベチに叩かれていた、俺にとってのすべての始まりの場所。
「ここにします。縁起が良さそうだ」
「渋谷第三、ですか。あそこはF級ダンジョンですが、構造が新宿より少し複雑ですよ。……分かりました。現地ギルドに警備の通達を入れておきます」
「ありがとうございます」
俺はスッと立ち上がり、腰に三万八千円の愛剣を装着した。
その瞬間、窓の外から、再び大音量のスピーカーを通したような声が響き渡った。
「天城湊さーん! 今日の配信は!? 予定だけでも教えてくださーい!」
俺は、ほんの少しだけカーテンを開けて外の熱気を確認し、そして静かに閉じた。
「……黒瀬さん。我が家の裏口からって、道路に抜けられますか?」
「ええ、裏の路地はマスコミの死角になっています。そちらからタクシーを手配しましょう」
「助かります」
まさか、異世界を滅亡から救った『伝説の勇者』が、自宅から隠密行動で脱出するために、裏口の勝手口からコソコソと這い出る羽目になるとは思わなかった。
けれど――不思議と、悪い気分ではなかった。
昨日まで、俺はこの世界において、本当に何者でもないただの無色透明な存在だった。
高校中退。
職歴なし。
資格なし。
社会から『必要ない』と突き放されたような、ただの二十六歳の無職。
それが今では、画面の向こうで四十二万人もの人間が、俺の次の一歩を、息を呑んで待っているのだ。
「――よし、行ってきます」
神に選ばれた『勇者』というレールを走るんじゃない。
今度は、自分の力で、一から一番高い場所まで駆け上がってやる。
俺は静かに裏口のドアを開け、人生二度目となるダンジョン配信の戦場へと飛び出していった。
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