第4話 人生初のダンジョン配信を始める
翌日。
「よし」
俺は実家の玄関前で、軽く肩を回しながら小さく気合を入れた。
本日の装備は、動きやすさを重視した黒い長袖のインナーシャツに、ポケットの多い丈夫そうなカーゴパンツ。その上から、昨日探索者協会から配給されたばかりの、胸部と肩だけを保護する樹脂製の簡易防具を身につけている。
そして腰のベルトには、昨日購入したばかりのピカピカの片手剣を提げていた。
剣、とは言っても。
当然ながら、異世界アステリオンで俺が愛用し、魔王を両断した神代の聖剣アステリアとは比べものにならない。
駅前にある探索者向けの大型武器店で購入した、初心者用のスチール製量産品だ。
お値段、税込みで三万八千円。
高かった。
今の俺の経済状況からすれば、本当に泣きそうになるほど高かった。
向こうの世界では、王宮専属の伝説的な名工が「どうか私の最高傑作を勇者様の手で使ってください!」と、国宝級の剣を土下座せんばかりの勢いで無料で進呈してくれていた。
そのため、武器を買うために自分の財布から万札を捻り出すという行為そのものが、俺にとっては新鮮であり、同時にひたすら苦痛でもあった。
ちなみに、レジで「三万八千円になります」と言われて諭吉を差し出した瞬間は、魔王軍の四天王の一人と対峙した時よりも、遥かに心がズキズキと痛んだのを覚えている。
「湊」
カチャリと装備の具合を確かめていると、背後から声がした。
振り返ると、母さんがエプロン姿のまま、今にも泣き出しそうなほど心配そうな目でこちらを見つめていた。
「本当に、本当に行くのね? 大丈夫なの?」
「大丈夫だって。今日はちゃんと、初心者用の安全なダンジョンに行くって約束しただろ?」
「でも、本物の魔物がいるんでしょう? 怪我なんてしたら……」
「いるけど、その中でも世界一難易度が低いところを選んだから。他の探索者もたくさんいるし、危険なことは何一つしないよ」
今日俺が向かうのは、東京都内に複数存在する初心者向けダンジョンの一つ――『新宿第八ダンジョン』だ。
主にF級からE級の登録したての見習い探索者が利用する場所で、出現する魔物もゴブリンやスライム、ホーンラビット(角ウサギ)といった、低級の比較的大人しい種が中心らしい。
もちろん、俺にとっては未知の魔物たちだ。
姿や名前がアステリオンの奴らと同じでも、現代ダンジョンの魔物には異世界の常識がほとんど通用しない。それは昨日、嫌というほど思い知らされた。
だからこそ、今日は慎重にいく。
初配信だからといって、絶対に油断はしない。
「母さんの美味しい夕飯の時間までには帰るから、安心して。それじゃ、行ってきます」
「……無理だけはしちゃダメよ? 危なくなったら、すぐに逃げるのよ」
「ああ、分かってるよ」
俺は笑顔で母さんに手を振り、実家を後にした。
※ ※ ※
そして、一時間後。
「……人、多いな。まるで週末の原宿みたいだ」
新宿第八ダンジョンの重厚なゲート前に到着した俺は、想像以上の大混雑に圧倒されていた。
大剣を背負って気合を入れている金髪の若者。
身の丈ほどもある巨大な金属盾を抱えた男。
お洒落なローブを羽織り、装飾された杖を手にした魔法使い志望らしき若い女性。
全身を分厚い金属鎧で固めた、暑苦しそうな大男。
異世界であれば、冒険者ギルド本部の前で毎日見慣れていた光景だ。
しかし、そのすぐ向こう側には『ファミリーマート』や『東京都庁』など、超近代的な街並みが広がっている。
そのあまりにシュールなミスマッチ感のせいで、目眩がしそうなほどの違和感があった。
「さて、そろそろ始めるか」
俺はスマートフォンを取り出した。
正確には、スマートフォンだけではない。昨日、広報の黒瀬さんからアドバイスを受けて用意した、探索者配信用の『小型浮遊撮影カメラ』をポケットから取り出す。
現代の魔導技術で開発されたという、ドローン型の自律飛行カメラだ。魔素をエネルギーにして駆動し、一度ユーザーとして登録すれば、自動的に配信者の最適なアングルをキープして追尾撮影してくれるという、とんでもない優れものだ。
アステリオンの宮廷魔術師たちが見たら、その便利さと技術の高さに卒倒して泣き出すに違いない。
あちらの世界では、戦況を記録するだけでも高価な投影魔石が必要で、その術式を維持する術者にも莫大なコストがかかっていたのだ。
科学とダンジョン技術が融合したこの世界、本当に強すぎる。
「ええと……ここをこうタップして」
スマホの画面を操作し、配信アプリを立ち上げる。
チャンネル名は昨夜、自分の部屋でベッドの上をごろごろ転がりながら、悩みに悩んだ末に決めたものだ。
『元無職の湊、ダンジョンで成り上がります』
『元勇者』とは、天地がひっくり返っても書けない。
初配信からそんな痛々しい名前を自称した瞬間、誰にも信じてもらえないどころか、ただの痛い系ネットパトロール対象として、生涯消えない黒歴史をネットに刻むことになる。
「よし。――配信、開始」
画面が明るく切り替わる。
それと同時に、画面の隅にある『同時接続者数』の数字が、カチカチと音を立てるように動き始めた。
現在:二十三人。
「えっ、二十三人もいるのか?」
てっきり、最初は視聴者ゼロ。良くて一人か二人、黒瀬さんがサクラで見てくれている程度だと思っていた。
驚いていると、画面の下部から、目にも留まらぬ速さでコメントが流れ始めた。
『あ、始まった』
『昨日バズってた例のヤバすぎる新人?』
『本物かこれ。釣りじゃない?』
『実技試験で防壁ごと粉砕した顔だ。間違いなく本人』
『なんか思ってたより普通っていうか、普通の青年だな。もっとイカつい奴かと』
「……あ、どうも、こんにちは。声、聞こえてますか?」
『めっちゃクリアに聞こえてるよー!』
『普通に物腰柔らかくて草』
『試験場破壊サイコパス(笑)って言われてたのに、めっちゃ丁寧だな』
「サイコパスではありません。ただの、職歴のない二十六歳です」
『草』
『自分で職歴ないって言うなwww』
『でもマジで新人なのか? あの剣圧はプロの仕事だったろ』
『試験場、今ごろ修繕費で頭抱えてるぞ』
「本当に、事故だったんです。ちょっとだけ、力加減が難しくて」
『事故で床があんなに砕けるわけねえだろ!』
『加減とは』
『今日の配信、何階層まで行くの?』
「今日は初配信なので、絶対に無理をせず、一階層からゆっくりと安全に探索します」
『昨日壁壊した奴が言うと説得力ゼロで草』
『装備、その安物の片手剣一本だけ?』
「はい。武器はこれだけです。魔法も一応使えますが……」
『えっ、魔法使えるの!?』
『魔導師系スキル持ち?』
「はい。使えますけど、今日はなるべく使わない方針でいきます」
『なんでだよ!』
「いや、使うとまた色々と目立って、弁償とか言われたら困るので」
『もう手遅れだろwwww』
なぜか視聴者全員から、一斉にツッコミを入れられた。
俺は不思議そうに首を傾げながらも、ゲートの受付でピッと探索者カードを提示し、新宿第八ダンジョンの内部へと足を踏み入れた。
ゲートを越えた瞬間、空気が変わった。
ひんやりとした湿気のある風。石造りの無機質な通路。壁には一定間隔で、オレンジ色の淡い光を放つ魔力灯が設置されている。
その光景を目にした瞬間、胸の奥が僅かにキュッとざわついた。
あまりにも、似ている。
異世界アステリオンで、何度も、何十回も潜った数々の地下迷宮に。
信頼できる仲間たちと剣を強く握りしめ、互いに背中を預け合い、泥にまみれ、命を懸けて進んだあの熱い日々に。
一瞬だけ、幻聴のように懐かしいガルドたちの笑い声が聞こえた気がした。
『湊?』
『急に黙ったぞ、どうした?』
『おーい、電波悪い?』
「あ、すみません。ちょっと……懐かしくなってしまって」
『懐かしい?』
「ええ、昔、これに凄く似た場所に行ったことがあるので」
『おいおい、やっぱり潜ったことあるんじゃねえか!』
「いえ。ダンジョンの登録は、本当に昨日が初めてです」
『じゃあ今までどこでそれを見たんだよwww』
『意味深すぎて草』
それ以上説明すると完全にボロが出るので、俺は足早に歩みを進めた。
数分後。
迷宮の角を曲がろうとした、その瞬間。
「……来ましたね」
俺はピタリと足を止めた。
『え、何かいる?』
『画面には何も映ってないけど』
『何が来てるの?』
「一体。足音の間隔と、この特有の獣臭からして……恐らく、ゴブリンです。前方、約三十メートル先の曲がり角から近づいています」
『聞こえるわけないだろwww』
『索敵スキルか何か?』
視聴者が半信半疑でコメントを打った、まさに次の瞬間。
「グギャッ!」
本当に、緑色の醜悪な小鬼――ゴブリンが、曲がり角から棍棒を振り回して飛び出してきた。
『うおおおお! マジで出た!』
『耳良すぎだろ、どんな索敵能力だよ!』
『普通、この距離の足音なんて聞こえないぞ!?』
「普通に聞こえましたよ?」
『だからその普通がおかしいっての!』
ゴブリンが俺を獲物と認識し、よだれを垂らしながら突進してくる。
俺は腰の三万八千円の鉄剣の柄に、そっと手を掛けた。
今度こそ、絶対に力の加減を間違えない。
昨日の実技試験の時は、手首のスナップをほんの少し強く利かせすぎてしまった。
今日の魔物は初心者用だ。
だから、もっと、もっと弱く。
綿毛をそっと撫でるくらいの、極限まで力を抜いた優しいスナップで――。
「グギャアアッ!」
間合いに入った瞬間。
俺は半歩だけ前に踏み込み、無造作に剣を抜いた。
――一閃。
空気の破裂音すらなく、ただ静かに銀光が走った。
ゴブリンの首が、音もなく宙を舞う。
「……」
俺は、その場に静かに立ち尽くした。
『は?』
『え……?』
『今、何が起きた?』
『抜刀が見えなかったんだけど』
『画面が一瞬バグった? スロー再生してくれ』
よし、今回は床も壁も無傷だ。
コンクリートも一切めくれていない。
「大成功ですね。完璧です」
『いや、何が成功なんだよ!!』
『抜刀から納刀までが神速すぎて何も見えなかったぞ!』
『これでF級ってマジ? 登録制度バグってない?』
ふと画面の端を見ると、いつの間にか同時接続者数の数字が、二十三人から『百二十人』を突破していた。
「あ、結構増えましたね。ありがとうございます」
『例の壁破壊動画から来ました!』
『今の剣速、どう見てもプロのそれだろ』
『新人探索者って言葉の定義が崩壊する』
「ありがとうございます。それでは、引き続き一階層をゆっくり安全に探索していきます」
『おい、ゆっくりだぞ?』
『慎重に頼むわ(笑)』
俺は再び、足音を忍ばせて迷宮を歩き始めた。
その五分後、三体のゴブリンが並んで現れたが、一秒で全ての首をはねた。
さらに十分後、通路の真ん中にプルプルと震えるスライムが現れた。
異世界の知識では、スライムは物理攻撃を拡散させて無効化するため、本来なら厄介極まりない相手なのだが、俺が鉄剣を軽く叩きつけると、ガラスが割れるようにあっさりと霧散して消滅した。
「やっぱり、こちらの世界のスライムは構造が全然違うんだな……」
『また意味深なこと言ってる』
『湊の知ってるスライムってどんな怪物だよ』
「俺の知っているやつは、剣で斬っても傷が即座に塞がって、逆に剣を酸で溶かしてくるような、かなりエグい生命体でした」
『それ、どこの魔境のスライムだよwww』
「海外より、もっと遠いところです」
『宇宙かよ。お前は宇宙の戦場で戦ってたのか』
惜しい。
ある意味では、異世界は宇宙よりも遠い多次元の果てだ。
そんな他愛もないコメントのやり取りをしながら歩くこと約三十分。
気づけば、俺の初配信の同時接続者数は、信じられないことに『千人』の大台を突破していた。
ネットの拡散力というやつは、本当に凄まじい。
『噂のチート新人ってここ?』
『一階層のゴブリンを、あくびしながら瞬殺しててワロタ』
『壁破壊マンって呼ばれてるの笑う』
「だから、破壊マンは営業妨害なのでやめてください」
『本人が嫌がってて草』
意外にも、配信という行為は楽しかった。
もっと孤独に、ただ黙々と魔物を狩る作業を見せるだけだと思っていたが、こうして誰かの言葉を受け取り、リアルタイムで会話しながら進むのは悪くない。
そんなことを、少し穏やかな気持ちで考えていた時だった。
「……ん?」
俺は、急激に身体の産毛が逆立つような感覚に襲われ、足を完全に止めた。
『どうした?』
『またゴブリン?』
『今度は何体?』
「いえ……」
俺は耳を澄ませた。
遠い。この迷宮の構造上、音の反響を計算しても、かなり距離がある。
しかし――確かに、鼓膜の奥に届いた。
激しい金属の衝突音。
大気を震わせる不気味な咆哮。
そして、何人もの若い人間が上げる、悲痛な絶叫と悲鳴。
「誰かが、戦っている。……いや、一方的に蹂躙されている」
『え?』
『いや、何も聞こえないぞ?』
『配信の音声も静かなもんだけど』
「少し先です。――いや、急ぎます!」
俺は地面を強く蹴り、凄まじい速度で弾丸のように走り出した。
迷宮の石壁が、視界の端で猛スピードで後方へ流れていく。
『速っっっ!?!?』
『おい、カメラがギリギリ追いついてるレベルの速度だぞ!』
『どこ走ってんだよ!』
「直線距離で、約五百メートル先。広場のようになっている場所です」
『五百メートル先!?』
『人間の耳で聞こえる距離じゃねええええ!』
けれど、確かに聞こえていた。
そして、状況は極めて悪い。
悲鳴を上げているのは複数人。
対して、それを追い詰めている魔物は一体。
だが、その一体が放つプレッシャーの『格』が、一階層にいるような雑魚とは明らかに違っていた。
わずか数秒で、俺はいくつもの通路を駆け抜けた。
そして、視界が開けた大部屋のような広間に辿り着いた瞬間、俺の目に凄惨な光景が飛び込んできた。
床には、おびただしい血を流してボロボロになった、三人の若い男女の探索者が倒れている。
そして彼らの前に、絶対的な死の象徴として立ちはだかっていたのは、全長三メートルをゆうに超える、巨大な半獣の怪物だった。
筋骨隆々の恐るべき巨体。
獰猛な牛の頭部。
その両手には、床の石畳を自重だけで削るような、巨大な両刃の大斧が握られている。
「ミノタウロス……!」
『は!?!?!?!?』
『待て待て待て!!!』
『新宿第八の一階層だぞ!? なんでミノタウロスがいるんだよ!!!』
『異常発生だ!!!』
『逃げろ! それ、最低でもC級中層にしか出ない化け物だぞ!』
『F級が勝てる相手じゃない! 配信切って今すぐ逃げろ!』
コメント欄が狂ったような速度でスクロールし、画面全体を埋め尽くした。
それと同時に、どこからか流入した視聴者によって、同時接続者数の数字が、三千、五千、八千と、凄まじい勢いで跳ね上がっていく。
広間の床に倒れ、血を吐いていた若者の一人が、俺の登場に気づき、掠れた声で叫んだ。
「に、逃げろ……っ!!」
恐怖でガタガタと震えながらも、彼は必死に俺を制止しようとする。
「俺たちは、もういい……っ! 早く、協会に……イレギュラーを……知らせろ……!!」
ミノタウロスが、その赤い巨躯をゆっくりと旋回させ、新しく現れた俺を、血走った二つの眼球で睨みつけた。
フシュー、と鼻から吐き出される荒い呼吸の熱気が、遠く離れたこちらにまで伝わってくる。
ミノタウロスは大斧を引きずりながら、地響きを立てて一歩ずつ、俺の方へと近づいてきた。
『逃げろおおおお!』
『救助要請! 早く救助要請ボタンを押せ!』
『これ、死人が出るぞ……!』
世界中が絶望のコメントで埋め尽くされる中。
俺は腰に提げた三万八千円の鉄剣を、チャリ、と静かに引き抜いた。
「大丈夫ですよ」
俺は、倒れている若い探索者に優しく微笑みかけた。
「――すぐ、終わりますから」
『え?』
『お前、戦う気か……!?』
『おい、やめろ!!』
ミノタウロスが、鼓膜を破壊せんばかりの勢いで咆哮した。
「ブオオオオオオオオオオオオッ!!」
大気がビリビリと震え、破壊的な力で巨大な大斧が振り上げられる。
俺は、その迫り来る死の暴風を真正面から見つめながら、静かに一呼吸置いた。
この現代のミノタウロスの弱点がどこにあるのか、俺は知らない。
異世界の知識は、今回も役に立たないかもしれない。
だったら、結論は一つだ。
「弱点なんて、最初から狙わなければいいだけの話だな」
『は?』
その直後。
俺が地面をそっと踏み込んだ瞬間。
配信画面から、俺の姿が完全に『消失』した。
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