第3話 初配信前にすでに少しだけ有名になる
「……この男、本当に新人なのか?」
コンクリートで囲まれた観察室に落ちたその言葉を、誰も否定できなかった。
むしろ、否定できるだけの材料が、この場には一つも存在していなかった。
訓練用とはいえ、探索者試験の実技で使用されるゴブリンは本物の魔物だ。
それを一撃で討伐するだけなら、まだそこまで珍しくはない。受験者の中には元ボクシングチャンピオンや、剣道でインターハイ出場経験のある有段者、あるいは覚醒した時点で強力な戦闘系スキルを保有している天才も稀にいるからだ。
だが、これは。
「床のコンクリートが、完全にめくれ上がっているぞ……」
「壁にも、S級の攻撃を想定した防壁にまで、クモの巣状のヒビが入っています」
「……これ、直撃じゃないよな? 剣圧、つまり衝撃波だけでこれだけの破壊を引き起こしたのか?」
「恐らくは。映像をスロー再生しても、剣先はゴブリンの身体に触れていません」
三人の試験官は、モニター映像に映る俺の姿を、まるで未知の天災でも見るかのように呆然と眺めていた。
一方その頃、当の本人である俺はといえば――。
「まずい、まずいまずい、めちゃくちゃまずいぞこれ……!」
試験官たちとはまったく別ベクトルの意味で、冷や汗を流して青ざめていた。
壊してしまった。
ピカピカだったはずの、協会の床を。
S級の攻撃にも耐えられるとかいう、ものすごく高そうな壁を。
これ、もしかして『全額弁償』とか言われるのだろうか。
いや、もしそんな高額な請求を突きつけられたら、俺の現代社会復帰ロードは完全に詰む。
こっちはつい昨日、コンビニのアルバイト面接にすら落とされた、貯金ゼロの二十六歳無職なのだ。
異世界アステリオンでは、魔王を討伐した報奨として国王から城が丸ごと買えるほどの金貨を山ほど贈られたが、残念ながら次元の壁を越えてこちらに持ち帰れた現物は一つもない。
今の俺の全財産は、帰還後に両親から「とりあえずの生活費に」と渡された数万円と、子供の頃に銀行へ預けていた微々たるお年玉の残りだけ。
もし「壁の修理代で五十万円になります」なんて言われたら、その瞬間に自己破産である。
「あの――っ! すみませーん!」
俺は必死な形相で、天井付近に設置されている監視カメラへ向けて両手を振り、大声を張り上げた。
『な、なんだ!? どうした、天城受験者!』
スピーカーから、慌てふためいた試験官の声が返ってくる。
「あの、これ……弁償ですか!? 弁償しなきゃいけないんですか!?」
『……』
また、重苦しい沈黙を返された。
なぜだ。こっちは人生の存亡を懸けて、真剣に質問しているんだぞ。
『いや……弁償の必要はない。訓練場内での破損は、協会の保険と維持費で賄われることになっている』
「本当ですか!? よかった……本当に、よかったぁ……!」
思わず膝から崩れ落ちそうになるほどの安堵。
俺は心の底から、ホッと胸を撫で下ろした。
そのあまりに小市民すぎるリアルな反応を見て、今度はスピーカーの向こうの試験官たちが「あんな規格外の力を出しておいて、心配するのはそこなのか……?」と激しく困惑していた。
だが、俺としては彼らの困惑など知ったことではない。
こちらには、明日の食費と尊厳が懸かっているのだ。
異世界では魔王に命を狙われ、現代の日本では金に人生を握られる。
どちらがより恐ろしいかと聞かれれば、今の俺なら間違いなく『現代の資本主義社会』と即答するだろう。
『と、とにかく試験は終了だ。次の受験者がいる。速やかに外へ退出してくれ』
「はい、ありがとうございました!」
俺は鉄剣を元の棚へ丁重に戻し、訓練場を後にした。
重厚な扉が開くと、その向こうの待機スペースでは、次の出番を待つ受験者たちが並んでいた。
だが、何かがおかしかった。
若い受験者たちが全員、まるで怪獣でも見るかのような目で俺を凝視している。
「?」
なんだろう。
顔にゴブリンの返り血でも付いているのだろうか。
自分の頬を手のひらで擦っていると、一人の、いかにも格闘技をやっていますといった風貌の若い男が、ゴクリと唾を飲み込み、恐る恐る声をかけてきた。
「あの……さっきの音って、あなたがやったんですか?」
「さっきの音?」
「はい。扉の向こうから、なんか大砲の着弾音みたいな、鼓膜が震えるような爆発音が響いてきたんですけど……」
「ああ、それですか」
なるほど。
この扉は、完全な防音仕様ではなかったらしい。
俺はできるだけ穏やかな笑みを浮かべ、人差し指で頭を掻いた。
「ちょっと、失敗しちゃいまして。力加減を」
「加減……?」
「はい。軽く振るだけのつもりが、ちょっと滑っちゃって」
「……」
男はそれ以上、何も聞いてこなかった。
それどころか、一歩、また一歩と、スルスルと自然な動作で俺から物理的な距離を取った。
その周囲にいた他の受験者たちも、申し合わせたかのように半歩ずつ後ずさりしていく。
なぜだ。
俺はただの、力加減が苦手な無職なのだが。
その後、実技試験は滞りなく続けられ、約一時間後にロビーで最終結果が発表された。
『受験番号一三七番、天城湊。合格』
「よし……!」
電光掲示板に自分の番号を確認し、俺は小さく拳を握った。
これでようやく、俺もこの世界の『探索者』だ。
ただし、最初に与えられる等級は当然、最下級の『F級』。
ここからダンジョンの攻略実績や魔物の討伐記録、ギルドへの貢献度を地道に積み重ねることで、E級、D級、C級と昇格していくシステムらしい。
最高位はS級。
日本国内に存在するS級探索者は、両手で数えられるほどしかいない。
いずれも一人で国家の一個師団に匹敵する戦力を持ち、大企業や政府から超法規的な特別待遇を受ける『人類最高峰の超人』たちだという。
「成り上がるなら、まずはそこを目指すことになるな」
俺は窓口で渡されたばかりの、ホログラム加工が施された『探索者カード』を眺めた。
天城湊。
二十六歳。
F級探索者。
なんとも地味で、控えめな肩書きだ。
異世界では『伝説の勇者』。こちらでは『最底辺のF級』。
そのあまりの落差に、思わず苦笑が漏れる。
だが、不思議と悪い気はしなかった。
むしろ、真っ白な状態から、もう一度一歩ずつ始められることが少しだけ嬉しかった。
異世界では、俺は最初から『勇者』という役割を押し付けられていた。
召喚されたその日に伝説の聖剣を握らされ、右も左も分からないまま『世界を救え』と、絶対的な運命を強制されたのだ。
そこに拒否権なんてものは最初からなかったし、『俺には無理だ』と弱音を吐くことも許されなかった。
なぜなら、俺が立ち止まれば、目の前で数万、数十万の無辜の民が死ぬからだ。
だから戦った。
ただひたすらに、心を殺して。
けれど、今は違う。
今度は、自分の意志で、自分の歩幅で進められる。
誰かに命令されたからではない。
自分の力で、自分の未来を掴み取るために。
「よし。まずは、配信プラットフォームのアカウントを作るところからだな」
独り言を呟きながら、意気揚々と協会の自動ドアから外へ出ようとした、その時だった。
「あの、天城湊さん……ですよね?」
背後から、よく通る涼やかな声に呼び止められた。
振り返ると、そこにはビシッとしたリクルートスーツに身を包んだ、知的そうな若い女性が立っていた。
二十代半ばくらいだろう。
黒髪を後ろできっちりとまとめ、知性を感じさせる眼鏡の奥の瞳が、真っ直ぐに俺を捉えている。
「はい。そうですけど……」
「失礼いたしました。私、探索者協会・東京本部の広報部に所属しております、黒瀬葵と申します」
「広報、ですか?」
「はい。突然で恐縮なのですが、少々お時間をいただけますでしょうか」
何だろう。
今度こそ本当に、壁の修理費についての誓約書か何かにサインさせられるのだろうか。
一瞬で警戒モードに入った俺に対し、黒瀬さんは「ふふ」と柔らかく微笑み、手元に持っていた薄型のタブレット端末を差し出してきた。
「こちらをご覧ください」
画面に映し出されていたのは、見慣れた動画サイトの画面だった。
そして、その再生プレイヤーに映っているのは、他ならぬ――俺だった。
「これ……さっきの?」
「はい。正確には、先ほどの実技試験で、あなたがゴブリンを『軽くお散歩』させた瞬間の映像ですね」
映像は、訓練場内の定点カメラから撮影されたものではなかった。
どうやら、待機所にいた受験生の誰かがスマートフォンのカメラでこっそり撮影していたらしく、扉が一瞬だけ開いた時に見えた『一直線にめくれ上がった床』と、そこから平然とした顔で出てくる俺の姿が克明に映り込んでいた。
動画には、いかにもネット民が好みそうな扇情的なタイトルが付けられている。
『【放送事故】探索者試験にヤバすぎるチート新人が現れたんだがwww【壁破壊】』
そして、その右下に表示されている再生回数は――。
「二万、三千……?」
「ええ。そして、現在も毎秒数百回ペースで伸び続けています」
「いつ投稿されたんですか、これ」
「今から、ちょうど四十分前ですね」
「よんじゅっぷん!?」
この世界の情報伝達スピード、さすがに早すぎるだろ!
アステリオン大陸で魔王を倒した時ですら、隣国に『魔王が倒された!』という一報が届くまでに、最速の伝書鳩を使っても三日はかかったんだぞ!
「コメント欄も、すでにかなりの盛り上がりを見せていますよ」
「……少し、見せてもらっても?」
「どうぞ」
俺は恐る恐る、黒瀬さんのタブレット画面を覗き込んだ。
『床が完全に割れてて草。どういうスキルだよ』
『これ本当に新人か? プロのA級探索者が変装してイタズラしてるだろ』
『ヤラセ乙と思ったら、東京本部の公式試験会場じゃん。ヤラセ無理だろこれ』
『最後に出てくる、無表情で「失敗した」って言ってる男、サイコパス感あって好き』
『名前は天城湊って奴らしいぞ。誰かこいつの配信チャンネルのURL貼ってくれ!』
「サイコパスって……俺は至って普通の一般人なのに……」
俺はがっくりと肩を落としたが、コメントの後半を読んで、ハッと指を止めた。
『配信チャンネルのURL』を求めている人間が、すでに大勢いる。
「……彼らは、俺の配信を見たがっている?」
「はい。その通りです」
黒瀬さんは、我が意を得たりとばかりに深く頷いた。
「天城さん。あなたは現在、登録されたばかりの無名の新人です。本来なら、新人が配信を始めても、最初は同接ゼロ。誰にも見てもらえないのが普通です。ですが、今この瞬間なら、すでにあなたの一挙手一投足に興味を抱いている見込み視聴者が、ネット上に数万人規模で存在しています」
確かにそうだ。
これは、マーケティング的に言えば『最初からボーナスステージが用意されている』ようなものだ。
「俺、実は今日の登録と一緒に、ダンジョン配信者の申請も出していたんです」
「存じております。試験後の申請書類で、配信者登録希望にチェックが入っていましたので、広報である私にすぐ情報が回ってきました。どうですか? 始めるのであれば、この波が引かないうちに、なるべく早く配信をスタートさせるべきだと、私は考えています」
黒瀬さんはそう言って、クリアファイルに入った一枚の資料を渡してくれた。
そこには、配信に必要な基本機材のリスト、ダンジョン内での電波中継器の使い方、規約違反となる禁止行為、そして初心者におすすめの配信プラットフォームの比較データなどが、信じられないほど細かくまとめられていた。
これは、最高のチャンスだ。
異世界では、俺の名前は良くも悪くも全員が知っていた。
だが、この現代日本において、俺はまだ何者でもない。
それでいい。
いや、それがいい。
最底辺のF級から、一人の配信者として這い上がっていく。
今度は、誰かに勝手に押し付けられた『勇者』という空虚な肩書きではなく、自分の実力と、自分の言葉で、この世界に俺の存在を認めさせてやる。
「やります」
俺は渡された資料を、力強く握りしめた。
「明日、さっそく初配信を行います」
「明日、ですか? 機材の準備やアカウントの設定など、かなり慌ただしくなると思いますが」
「善は急げ、と言いますから。徹夜してでも準備します」
俺の即断即決ぶりに、黒瀬さんは驚いたように目を丸くしたあと、眼鏡の奥の瞳を細め、嬉しそうに笑った。
「頼もしいですね。それでは、天城湊さん――あなたの初配信、楽しみに拝見させていただきます」
こうして。
異世界帰りの元勇者、天城湊は。
翌日、人生初となる『ダンジョン配信』のスタートラインに立つことになった。
そして、この時の俺はまだ夢にも思っていなかった。
明日行う、ただのF級ダンジョンでの小競り合いのような初配信が。
日本の探索者界隈全体を、根底からひっくり返すほどの大騒動に発展することを――。
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