第2話 元勇者、筆記試験で魔王戦以上の絶望を味わう
結論から言おう。
俺は、勉強が苦手だ。
いや、正確には、昔から壊滅的に苦手だったわけではない。
高校一年生までは成績もそれなりに平均以上をキープしていたし、中学時代には定期テストで学年上位十位以内に入った経験だってある。
だが、人間というものは十年間も鉄剣を振り、ドス黒い魔物の血を浴び、魔王討伐のために大陸中を休むことなく走り回っていると、学校で覚えた義務教育の知識など、綺麗さっぱり頭の中からデリートされてしまうらしい。
そして何より――。
「国内ダンジョン法第三十七条……登録探索者がギルドの指定区域外において、未認可の魔物素材を私的に売買した場合は、三年以下の懲役、または百五十万円以下の罰金に処する……。なんだこれ、日本語なのか?」
分からない。
本当に、一文字たりとも脳が理解を拒んでいる。
俺は実家の自室の机に座り、昨日、探索者協会で購入してきたばかりの、辞書のように分厚い参考書を前にして頭を抱えていた。
異世界で、魔王軍の幹部が使用する超複雑な『古代暗黒魔法』の術式を一人で解読・解析した時でさえ、ここまで絶望的な気分に陥った覚えはない。
古代エルフ語の方が、まだ文法的に筋が通っていたぞ。
参考書の無機質な明朝体の文字を追っているだけで、猛烈な睡魔が津波のように押し寄せてくる。
聖剣を握って三日三晩、不眠不休で魔物の大群と戦い続けることはできる。
だが、この参考書をたった三十分読むだけで、俺の魂は容易に限界を迎え、意識が冥府へと旅立ちそうになる。
不思議だ。
人間とは、環境によってここまで脳の構造が変わってしまう生き物なのだろうか。
「湊ー、ご飯できたわよー! 今日はあんたの大好きな唐揚げだよ!」
「今行く!」
階下から響いた母さんの声に、俺はプロの勇者も驚くほどの電撃的な速度で返事をして、即座に参考書をバタンと閉じた。
勘違いしないでほしいが、逃げたわけではない。
これは『戦略的撤退』だ。
戦況が不利な時、一度敵から距離を取り、肉体と精神の態勢を立て直すことは戦術の基本。アステリオン大陸でも何度も経験し、俺たちを勝利に導いた高尚な決断である。
ただし、今回の問題は、宿敵である『参考書』が机の上に鎮座したまま、夕食を終えた後も一歩たりともそこから動いてくれないということだった。
※ ※ ※
「湊、探索者になるんだって?」
温かい湯気が立ち上る食卓で、父さんが味噌汁をズズッと啜りながら、何気ない調子で尋ねてきた。
「ああ。色々と考えてね。そのつもりだよ」
「……危なくないの、それ。ニュースで見たけど、最近はダンジョンの中で大怪我をする若い子も多いんでしょう?」
母さんが、揚げたての唐揚げを皿に盛り付けながら、心底心配そうな顔をこちらに向ける。
それも当然だった。
両親にとって俺は、十六歳の時に突然神隠しのように姿を消し、十年間も生死不明だった末に、先日ひょっこり帰ってきたばかりの息子なのだ。
異世界で最強の『勇者』をやって、数万の軍勢を率いていたなんて話、さすがにまだ打ち明けられるはずがない。
いや、言えるわけがないのだ。
『十年間、どこで何をしてたの?』
『ああ、異世界アステリオンで魔王を聖剣で両断して、世界を救ってました』
なんて真顔で答えた瞬間、翌朝には精神科の予約を入れられる自信がある。
「大丈夫だよ。無茶は絶対にしないし、安全第一の低階層から少しずつ慣らしていくから」
「本当に? 約束してね、湊」
「本当だって。ほら、母さんの唐揚げ、世界一美味しい」
俺が少し大袈裟に笑って唐揚げを口に放り込むと、母さんはまだ少し心配そうな目をしてはいたものの、それ以上は何も言わなかった。
異世界では、宿屋の簡素なスープや、野営の硬い干し肉ばかりを食べていた。
だからこそ、この温かい家庭の味が、身体の芯まで染み渡るように美味い。
同時に、胸の奥がチクリと痛む。
本当は、全部話してしまいたかった。
ある日突然、青い光に包まれて知らない場所へ飛ばされたこと。
生きるために必死で剣を握り、気がつけば世界を救う『勇者』に祀り上げられていたこと。
何度も死線を彷徨い、そのたびにボロボロになりながら仲間たちと泣き笑いしたこと。
そして――最後は、あいつらをあっちに残して、どういうわけか俺だけがこの平和な日本に帰ってきてしまったこと。
けれど、話したところで両親を困惑させ、余計な心配をかけるだけだ。
何より俺自身、まだ向こうでの怒涛の十年間の出来事を、自分の中で完全に整理しきれていなかった。
「それで、試験はいつなの?」
「一週間後。駅前のビルにある支部で受けるよ」
「ちゃんと勉強してるの?」
「……」
「湊?」
「……してるよ。めちゃくちゃ机に向かってる」
嘘は言っていない。
確かに参考書は開いた。
文字だってしっかりと網膜に焼き付けた。
ただ、それが脳に浸透して知識として定着したかどうかは、またまったく別の話である。
その夜、俺は再び決死の覚悟で机に向かった。
しかし、わずか一時間後。
「無理だ!!」
俺は叫び、参考書を勢いよく閉じた。
分からないものは、どれだけ睨みつけても分からない。
敵の防御力が高すぎるなら、搦め手を使う。それがプロの戦い方だ。
俺はスマートフォンを取り出し、探索者試験の『合格基準』について調べ始めた。
どうやら、筆記試験は百点満点中『六十点以上』で合格らしい。
ということは、だ。
一から十まで全部真面目に丸暗記する必要はない。
四十点分までは、堂々と間違えてもいいということになる。
「なんだ。それなら、ただの『選択と集中』じゃないか。余裕だな」
俺は邪悪な笑みを浮かべ、重要そうな単語だけをピックアップして脳に叩き込む、超強行突破の学習法に切り替えた。
※ ※ ※
そして一週間後、試験当日。
「そこまで。残り五分です。マークシートの記入漏れがないか確認してください」
静まり返った試験会場に、試験官の冷徹な声が響き渡る。
「……」
俺は、激しい目眩とともに絶望していた。
何も分からないわけではない。半分くらいはヤマが当たって、自信を持って答えられた。
しかし、残りの半分が、俺の『異世界の常識』を刺激して致命的な葛藤を生み出していた。
『問三十二。ダンジョン内で遭遇したブルースライムに対して有効な対処法を、次の四つから選びなさい』
一、水属性魔法を使用する。
二、火属性魔法を使用する。
三、打撃武器を使用する。
四、大声を出して威嚇する。
「……」
俺の知っているアステリオンのスライムなら、絶対に『火』だ。核を熱で焼き潰すのが基本中の基本。
だが、この世界の常識ではどうだ?
昨日ネット動画で見た配信では、配信者が鈍器でスライムをベチベチ叩いて倒していた。
ということは、物理攻撃が有効な『三』なのか?
いや、しかし名前に『ブルー』と付いている以上、水属性の魔物だと仮定すれば、相性的に『二』の火魔法の方が有効とも考えられる。
……駄目だ。
異世界で培った『十年のガチ戦闘経験』が、かえって余計な先入観となって俺の邪魔をしてくる。
知識がない方が、まだ現代の教科書通りに答えられたんじゃないか?
「残り、一分です」
「早いっ!」
思わず小さく声が出てしまった。
ペンを走らせる音だけが響く静寂の中、周囲の十代から二十代前半とおぼしき若い受験生たちが、一斉に怪訝な視線を俺へ向けてくる。
「……あ、すみません」
俺は気まずさに顔を熱くしながら平謝りし、半ばヤケクソで解答欄の『三』にグリグリとマークを塗った。
そして、試験終了。
結果発表は、現代のシステムらしくデジタル処理され、わずか十分後にロビーの電光掲示板へ表示された。
「頼む……神様、アステリオンの女神様……」
勇者時代、命懸けの戦いでさえ神に祈ったことなど一度もなかった。
いつだって自分の腕と、仲間が鍛えてくれた剣だけを信じて戦い抜いてきた。
だが、今は違う。
今の俺には、己の解答用紙すら信じる根拠が何もない。
掲示板の文字が、チカチカと切り替わる。
『受験番号一三七番 得点六十一点 合格』
「……勝った。魔王に、勝ったぞ……!」
俺は周囲の目を気にすることなく、天に向かって力強くガッツポーズを決めた。
六十一点。
合格基準からわずか一点上というスレスレ。まさに首の皮一枚、奇跡の薄氷を踏む大勝利だ。
しかし、勝ちは勝ち。
魔王を討伐した時とは、また脳の異なる部分を刺激する奇妙な達成感が胸に満ちていく。
「よし、これで第一関門突破――」
「筆記試験合格者は、速やかに次の実技試験会場へ移動してください」
「……あ、そうだ。実技試験があったわ」
俺は一瞬で現実に引き戻され、肩を落とした。
他の合格者たちと共に、協会本部の地下にある、サッカースタジアムほどもある広大な訓練施設へと移動する。
コンクリート打ちっぱなしの壁際には、鉄剣、槍、盾、弓といった様々な種類の武器が、棚にずらりと並べられていた。
そして中央には、いかにも『プロのベテラン探索者』といった風貌の、黒い戦闘服をまとった試験官が三人、腕を組んで立っている。
「これより、実技試験を開始する」
中央に立つ、ヒゲ面の頑強そうな大柄な男が、威圧感のある声を響かせた。
「試験内容は極めてシンプルだ。受験者には一人ずつ、中央の防壁で区切られた模擬フィールドに入ってもらい、出現する魔物と交戦し、これを討伐してもらう」
若い受験生たちの間に、ピリッとした緊張の波が広がる。
「安心しろ。出現するのは、この世界で観測されている最低ランクの『F級魔物』だけだ。ゴブリン、スライム、ホーンラビット(角ウサギ)。この三種類からランダムで一体が装置から召喚される。ギブアップするか、試験官が危険と判断した時点で不合格。即時救出する」
最低ランク。
なるほど、それなら何の問題もない。
異世界の知識は役に立たない。
ゴブリンの右目が弱点じゃないとしても、しょせんは最弱種の魔物だ。身体能力だけでゴリ押しても、負ける要素が万に一つも見当たらない。
「なお、使用する武器は自由だ。あそこにある棚から、自分の得意なものを持っていけ」
俺は並べられた武器を見つめた。
剣、槍、両手斧、短剣、弓矢。
どれでも扱える。
勇者時代、俺は聖剣アステリアを愛用していたが、あらゆる戦況に対応できるよう、実戦向けの武器技術は一通りマスターさせられていた。
とはいえ、ここで目立つつもりは毛頭ない。
俺はあくまで、浦島太郎状態から脱却し、現代社会に馴染もうとしている大人しい一般人だ。
普通に合格し、普通にF級の免許をもらい、普通に配信を始めて、普通に稼ぐ。
これ以上の贅沢は望まない。
「次、受験番号一三七番。天城湊!」
「はい!」
名前を呼ばれ、俺は一歩前へ出た。
周囲の若い受験生たちから、「あの人、二十代後半に見えるけど、今まで何してたんだ?」というヒソヒソ声が聞こえるが、そんな雑音はスルーだ。
俺は武器置き場へ歩み寄り、最も目立たない、標準的な片手用の『鉄剣』を手に取った。
実際に握ってみると、重心のバランスが少し悪いし、刃も丸くなっている。
だが、ゴブリンを一体片付けるだけなら、十分すぎる代物だ。
「フィールドへ入れ!」
重厚な鋼鉄の扉が、不気味な駆動音を立ててスライドした。
俺は鉄剣を片手に、静かに中へと足を踏み入れる。
訓練場は四方を強化コンクリートの壁で囲まれた広間になっており、正面の奥には、魔物の生体データを実体化させるための黒く巨大な召喚装置が設置されていた。
背後で、退路を断つように重い扉が閉まる。
『準備はいいか?』
天井のスピーカーから、試験官の硬い声が響いた。
「はい、いつでも」
『それでは――実技試験、開始』
ブォン、と重低音が鳴り、召喚装置が禍々しい青紫色の魔力光を放った。
空間がグニャリと歪み、粒子が集まるようにして、一体の緑色の影が泥のように這い出てくる。
「やっぱり、ゴブリンか」
不気味な緑色の皮膚。引き裂かれたような口。
手には原始的な木製の棍棒。
異世界で、それこそ数え切れないほど蹂躙した、見飽きた姿そのものだった。
だが、俺は一度深く息を吸い、自分に言い聞かせる。
右目が弱点という知識は通用しない。
火に弱いとも限らない。
ならば、余計な戦術はすべて捨てる。
ただ、近づいて、斬る。
それだけに集中しよう。
「グギャアアアッ!」
ゴブリンが俺の姿を視認し、耳障りな金切り声を上げて突進してきた。
俺は鉄剣の柄を、ごく自然な動作で握り締める。
一歩。
足を踏み込み、前へ出る。
ゴブリンが頭上から不格好に棍棒を振り下ろそうとした、その刹那――俺はすでに、その懐へと滑り込んでいた。
そして、軽く剣を振るった。
本当に、手首のスナップを利かせる程度の、撫でるような軽い一振りだ。
相手は試験用のホログラムの魔物だ。
必要以上に破壊せず、ちょっとだけ吹き飛ばして無力化できればいい。
そう、優しく加減したつもりだった。
――ズ、ドォォォォォン!!!
空間が、爆発したかのような衝撃波に包まれた。
「え……?」
俺の振るった剣先から放たれた極大の『剣圧』が、目に見える白い真空の刃となって床を走ったのだ。
衝撃によって頑丈な石畳が一直線にメキメキと、まるで地震でも起きたかのようにめくれ上がり、爆風に巻き込まれたゴブリンは、悲鳴を上げる暇さえなく遥か後方の防壁まで一瞬で吹き飛んだ。
そのまま強化コンクリートの壁にベチャリと衝突し、壁一面にクモの巣状の巨大な亀裂を作り出して、一瞬で魔素の塵となって消滅した。
「……」
完全なる静寂。
俺は、おもちゃのような鉄剣を構えた姿勢のまま、冷や汗を流して固まった。
やらかした。
完全に、力の加減を間違えた。
『……』
場内スピーカーの向こうにいる試験官たちも、完全に思考が停止しているらしく、ノイズ音だけが静かに響いている。
俺は震える声で、マイクに向かって声をかけた。
「あの……すみません」
『……お、おい。受験番号一三七番。今、何をした……?』
「いや、その……普通に、軽く斬りました。ちょっと手元が滑ったというか……」
『普通……? 軽く……? 壁の強化コンクリートは、S級の衝撃にも耐えられる設計なんだぞ……?』
「えっ」
再び、重苦しい沈黙。
俺は額を手で覆った。
強烈な嫌な予感が全身を駆け巡る。
目立たず。
普通に。
実力を隠した新人らしく。
そう計画していたはずなのに、どうしてこうなった。
その頃、マジックミラー越しに俺を監視していた観察室では、三人のベテラン試験官が、無言で一直線にめくれ上がった床と、粉々に砕けた壁を見つめていた。
そして中央のヒゲ面の男が、顔を青ざめさせ、ガタガタと震える手で湊の履歴書を凝視しながら呟いた。
「……この男、高校中退で職歴なしのただの無職じゃなかったのか? おい、本当に新人か……?」
どうやら俺の現代社会での成り上がり人生は、最初から『普通』というレールを力強く踏み外してスタートしたようだった。
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