第35話 勇者と呼ばれる資格
ラグナ村での戦いを終えた夜、俺は教会裏の井戸端で何度も手を洗っていた。
水は冷たく、指先の感覚を奪っていく。それでも、掌にこびりついた血の臭いが消えた気はしなかった。実際にはもう何も残っていない。何度も水をかけ、布で擦り、爪の間まで洗った。それなのに聖剣を振り下ろした瞬間の感触だけが、皮膚の奥へ染み込んだように離れなかった。
オーガの骨を断った重さ。
首が落ちた音。
黒い血を浴びた時の熱。
誰かを守ったという実感より、自分が命を奪ったという事実の方が、ずっと大きく胸へ残っていた。
『もう落ちないわよ』
背後から聞こえた声に振り返ると、セレナが毛布を抱えて立っていた。
「分かっています」
『分かっていない顔をしている』
彼女は俺の隣へ腰を下ろし、肩へ毛布をかけた。村の治療はまだ続いている。負傷者は多く、セレナも数時間前まで休まず治癒魔法を使っていたため、顔色は青白かった。
「俺がもっと早く動けていたら、助かった人がいたかもしれません」
『あなたが動かなければ、教会の中にいた人は全員死んでいた』
「でも、最初に指示を出せませんでした」
『初めての戦場で完璧にできる人なんていないわ』
「勇者なら、できないと駄目なんじゃないですか」
その言葉を口にした途端、自分でも腹が立った。
勇者だから。
聖剣に選ばれたから。
異世界から呼ばれたから。
この世界へ来てから、周囲の人間は何かにつけてその言葉を使った。俺が怖がれば勇者なのにと言われ、迷えば勇者らしくないと言われる。誰も、勇者になる準備などしていなかった十六歳の少年に、どうすれば正しく戦えるのかを教えてはくれなかった。
セレナはしばらく黙った後、静かに口を開いた。
『勇者って、失敗しない人のことじゃないと思う』
「では、何ですか」
『失敗した後も、逃げずに次を選べる人』
その答えを、俺はすぐには受け入れられなかった。
けれど、否定することもできなかった。
翌朝、村の広場へ生き残った人々が集められた。騎士たちは倒した魔物の数と被害状況を確認し、王城へ送る報告書を作成していた。
その中で、妙な点が一つ見つかった。
魔王軍の小部隊が襲撃したにしては、敵の数が少なすぎる。
村へ現れたのはゴブリンとオーガだけで、指揮官に相当する個体はいなかった。それにもかかわらず、柵の位置や避難経路を把握し、村人を教会へ追い込むように動いていた。
偶然ではない。
誰かが魔物へ村の情報を与えている。
『案内役がいたはずです』
若い騎士がそう告げると、村人たちの間に動揺が広がった。
やがて一人の老人が、震える指で村長を指した。
『三日前、魔物と話しているところを見た』
広場の空気が凍りついた。
村長は最初こそ否定したが、騎士たちが自宅を調べると、魔王軍が使用する黒い通信用石板が見つかった。問い詰められた彼は、その場へ膝をつき、泣きながら事情を話し始めた。
魔王軍から、村を差し出せば家族だけは助けると脅された。
拒めば全員殺すと言われた。
だから柵の弱い場所と、避難先を教えた。
『私は家族を守りたかっただけだ!』
村人たちから怒号が飛んだ。
石を投げようとする者まで現れ、騎士たちは村長を囲んで民衆を抑えた。俺はその光景を見ながら、何も言えなかった。
村長がしたことは許されない。
彼の情報によって人が死んだ。
それでも、家族を守りたかったという言葉だけは、理解できてしまった。
俺だって元の世界へ帰るためなら、何を選ぶのか分からない。
『裏切り者は処刑する』
騎士隊長が告げた。
村長の顔から血の気が引く。
その場で剣が抜かれた瞬間、俺は二人の間へ立っていた。
「待ってください」
『勇者様、これは王国法で定められた処罰です』
「事情を調べる前に殺すんですか」
『本人が認めています』
「魔王軍と、どこで接触したのか。誰が命令したのか。ほかの村でも同じことが起きているのか。聞くことはまだあります」
騎士隊長は眉を寄せた。
『罪人を庇うおつもりですか』
「庇っているわけではありません」
俺は村長を見た。
彼は許しを求めるように俺を見上げていたが、助けると約束することはできなかった。
「罪は償うべきです。でも、殺せば終わりというやり方が正しいとは思いません」
『甘い判断です』
「そうかもしれません」
周囲から向けられる視線には、失望も反発も混じっていた。
それでも退かなかった。
「俺は昨日、守るために魔物を斬りました。だからこそ、人を殺すことまで簡単に決めたくありません」
長い沈黙の末、騎士隊長は剣を納めた。
村長は王都へ連行され、正式な取り調べを受けることになった。
その判断が正しかったのかは、当時の俺には分からなかった。
ただ、命を奪う力を手にしたからこそ、それを使わない選択にも責任を持たなければならないと思った。
帰還の馬車へ乗り込む直前、教会に避難していた少年が俺の前へ駆けてきた。
『勇者様!』
その呼び方に、俺は僅かに戸惑った。
『助けてくれて、ありがとう』
少年は不格好な木彫りの飾りを差し出した。剣を持った人の形をしているが、腕の長さも顔の造りも歪んでいる。
『僕が作った勇者です』
俺はそれを受け取った。
王国に召喚された日から、勇者という言葉は鎖のように感じていた。
戦え。
救え。
従え。
そう命令するための名前だと思っていた。
けれど、少年が呼んだ勇者は違った。
恐怖の中で助けを待っていた彼にとって、それは肩書きではなく、最後に現れてくれた誰かの名前だった。
「ありがとう」
木彫りの飾りを握りしめ、俺は初めてその呼び名から目を逸らさなかった。
まだ世界を救う覚悟などない。
魔王を倒せるとも思えない。
それでも、目の前で助けを求める人へ手を伸ばすことだけはできる。
それが勇者になる第一歩なのだと、この時の俺はようやく気づき始めていた。
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