第33話 勇者を作るための訓練
翌朝、俺はまだ空が白み始める前に叩き起こされた。
案内されたのは王城の裏手にある広大な訓練場だった。高い石壁に囲まれた地面には無数の傷が刻まれ、木剣や槍、盾が整然と並べられている。昨日まで学校の体育でさえ人並みだった俺にとって、そこは訓練施設というより、これから自分が人間ではない何かへ作り変えられる場所のように見えた。
待っていたのは、王国騎士団長を名乗る大柄な男だった。
灰色の髪を短く刈り込み、顔には古い傷が何本も走っている。名前はバルガス。王国内でも最強と呼ばれる剣士であり、俺を勇者として鍛える任務を与えられたらしい。
『まず剣を構えろ』
「剣なんて持ったことがありません」
『だから教える』
渡された木剣は、見た目以上に重かった。両手で握るだけでも腕が震え、見よう見まねで正面へ構えると、バルガスは呆れたように眉を寄せた。
『腰が高い。足幅が狭い。握りが強すぎる。その構えでは最初の一撃で剣を落とす』
「昨日まで普通の高校生だったんです。できなくて当然でしょう」
『敵は待ってくれない』
直後、木剣が腹部へ突き刺さった。
息が詰まり、俺は地面を転がった。痛みで何も考えられないまま顔を上げると、バルガスは表情一つ変えずに見下ろしていた。
『立て』
「無理です」
『立て』
「帰る方法を探すって言っただけで、こんなことをするなんて聞いてません」
『魔王を倒さなければ帰還方法を探す余裕も生まれない』
理屈になっていなかった。
だが、俺が反論しても訓練は終わらなかった。
立てば打たれ、倒れれば起こされる。剣を受け損なえば肩を叩かれ、足を止めれば脛を払われた。聖剣に選ばれたことで身体能力は多少上がっているらしいが、経験も覚悟もない俺は、数分も経たないうちに泥と汗にまみれた。
午前中は剣術。
午後は魔力操作。
夜はこの世界の歴史と魔物についての座学。
食事と睡眠を除けば、ほとんど自由な時間はなかった。
訓練開始から三日目には、指の皮が剥がれた。五日目には全身の痛みで眠れなくなり、一週間後には夢の中でも木剣を振っていた。
何度も逃げようとした。
だが王城の門には兵士が立ち、俺が外へ出ようとすると丁寧な言葉で部屋へ戻された。客人として扱われてはいたものの、実際には監視されている囚人と変わらなかった。
それでも、訓練そのものには少しずつ慣れていった。
聖剣から流れ込んだ知識のおかげで、一度見た動きは頭の中へ鮮明に残った。バルガスの足運び、剣の角度、体重移動。それらを何度も繰り返すうちに、昨日までできなかった動作が、翌日には自然と再現できるようになる。
魔法も同じだった。
最初は掌へ小さな光を灯すだけで意識を失いかけたが、数日後には傷を塞ぐ治癒魔法と、身体を強化する術式を同時に維持できるようになった。
周囲の人間たちは、それを才能と呼んだ。
けれど俺にとっては、逃げるために必要な力だった。
魔王を倒せば帰還方法を探す。
国王の言葉を信じていたわけではない。それでも、この世界で生き延び、元の世界へ戻る可能性を掴むには、強くなる以外の選択肢がなかった。
訓練開始から二週間が経った日。
初めて実戦形式の試験が行われた。
訓練場の中央へ連れてこられた俺の前に、鉄格子で覆われた荷車が置かれる。中から聞こえてきたのは、人間のものではない低い唸り声だった。
「何が入っているんですか」
『ゴブリンだ』
バルガスの合図で鉄格子が開く。
飛び出してきたのは、俺の胸ほどの高さしかない緑色の魔物だった。手には錆びた短剣を握り、黄色く濁った瞳を俺へ向けている。物語の中では何度も見た姿だったが、現実に動き、呼吸し、殺意を向けてくる存在は、想像していたものとはまるで違った。
『斬れ』
「……殺すんですか」
『当然だ』
ゴブリンが短剣を振り上げて走り出す。
俺は反射的に聖剣を抜いたものの、体が動かなかった。
相手は魔物だ。
人間ではない。
そう自分へ言い聞かせても、目の前にいる存在が生きていることだけは分かる。息を荒くし、足音を立て、俺を見ている。
剣を振れば死ぬ。
その当たり前の事実が、腕へ鉛のように絡みついた。
「できません」
『ならば死ぬ』
ゴブリンが目前まで迫る。
短剣の切っ先が胸へ向けられ、俺は咄嗟に体を捻った。刃は制服の代わりに与えられた訓練服を裂き、脇腹へ浅い傷を作る。
熱い痛みが走った。
血の臭いを嗅いだゴブリンは興奮したように叫び、再び短剣を振り上げる。
俺は剣を構えた。
それでも振れなかった。
結局、バルガスが横から木槍を投げ、ゴブリンの頭部を貫いた。
魔物の体が地面へ倒れる。
黄色い瞳から光が消え、流れ出した黒い血が俺の靴へ触れた。
『お前は今、殺さなかったのではない』
バルガスの声が、頭上から落ちてくる。
『自分で殺す責任を負いたくなかっただけだ。その結果、誰かがお前の代わりに手を汚した』
「……そんな言い方」
『戦場では、迷った者から死ぬ。そして勇者が迷えば、死ぬのはお前だけではない』
何も言い返せなかった。
倒れたゴブリンを見つめていると、吐き気が込み上げてきた。自分が斬らなかった安堵と、代わりに誰かが殺した罪悪感が混ざり合い、何が正しいのか分からなくなる。
その日の訓練は、そこで終わった。
夜になっても眠れず、王城の中庭へ出た俺は、石段へ座り込んでいた。
すると、背後から足音が聞こえた。
『眠れないの?』
振り返ると、白い法衣を纏った少女が立っていた。
年齢は俺と同じくらい。淡い金色の髪と、青い瞳。手には小さな薬箱を抱えている。
『私はセレナ。神殿から派遣された治癒術師よ』
彼女は俺の返事を待たず隣へ腰を下ろし、脇腹の傷へ治癒魔法をかけ始めた。
『今日のこと、気にしてるんでしょう』
「……殺せませんでした」
『普通よ』
意外な言葉だった。
『初めて命を奪う時に、何も感じない人の方が怖いもの』
「でも、勇者なら迷うなと言われました」
『勇者になる前に、あなたは人間でしょう』
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥へ張りつめていたものが僅かに緩んだ。
この世界へ来てから、俺を勇者として見る人間は大勢いた。
けれど、ただの十六歳として扱ってくれたのは、彼女が初めてだった。
後に聖女と呼ばれ、俺と共に長い旅へ出る少女との出会いだった。




