第32話 十六歳の少年は、異世界へ落ちた
「始まりは、俺が十六歳だった日の放課後です」
探索者協会本部の地下会議室で、俺はそう口にした。
長机を挟んだ向こう側には、国内S級探索者筆頭の四人が座っている。《雷帝》神楽坂紫苑、《紅蓮鬼》九条烈火、《氷界の女王》雨宮澪、《不落城》黒鉄玄武。そして周囲には、探索者協会や政府の関係者、黒瀬さん、朱音、ユナの姿もあった。
誰も口を挟まない。
室内に響くのは、記録用端末が作動する微かな音だけだった。
俺は机へ落としていた視線をゆっくりと上げ、これまで誰にも詳しく語ってこなかった十年前の記憶を辿っていく。
あの日の俺は、勇者でも探索者でもなかった。
剣を握った経験すらなく、魔法という言葉を聞けば、漫画やゲームの中にしか存在しないものだと笑っていた、ごく普通の高校一年生だった。
その日は特別な出来事など何もない、ありふれた平日のはずだった。
部活動には所属しておらず、放課後になれば寄り道もせず帰宅する。学校では目立つこともなく、成績も運動能力も平均程度。友人がまったくいなかったわけではないが、誰かの中心に立つような性格でもなかった。
高校へ入学して数か月。
新しい環境にも少しずつ慣れ、これから始まる学校生活が、多少退屈でも平穏に続いていくのだろうと信じていた。
教室を出る直前、担任から進路希望調査の紙を渡されたことを覚えている。
高校へ入ったばかりなのに将来を決めろと言われても、何を書けばいいのか分からなかった。周囲の生徒たちが医者や教師、会社員と適当な職業を書き込む中、俺は空欄のまま用紙を鞄へ押し込み、夕暮れの校舎を後にした。
まさか、その紙を提出する日が来ないとは思っていなかった。
校門を出て、住宅街へ続く坂道を下る。
空は薄い茜色に染まり、遠くから部活動を続ける生徒たちの声が聞こえていた。携帯電話には母から、帰りに牛乳を買ってきてほしいという短いメッセージが届いていた。
その程度の、何でもない日常だった。
最初に異変へ気づいたのは、交差点を渡ろうとした時だった。
足元の影が、不自然に伸びた。
夕方の太陽とは反対方向へ広がった黒い影は、道路の白線を越え、俺の周囲を円形に囲んでいく。地面へ描かれた模様は、今なら高度な転移術式だと理解できるが、当時の俺には意味不明な落書きにしか見えなかった。
「……何だ、これ」
思わず足を止める。
円の内側へ、見たことのない文字が次々と浮かび上がった。白でも黄色でもない、淡い金色の光。文字は時計回りに回転しながら数を増やし、やがて道路全体を覆う巨大な魔法陣へ変わっていった。
周囲を歩いていた人々は、誰一人として異変に気づいていない。
俺のすぐ横を自転車が通り過ぎ、向かい側では親子連れが会話を続けている。誰かに助けを求めようとして声を上げたが、俺の言葉は見えない壁へ吸い込まれたように届かなかった。
魔法陣の外へ逃げようとした。
だが、足が動かない。
地面から伸びた金色の光が足首へ絡みつき、体を内側へ引きずり込もうとしている。恐怖で頭が真っ白になりながらも、近くの標識へ手を伸ばしたが、指先が触れる寸前に道路が消えた。
上下の感覚が失われる。
体が落下しているのか、空へ引き上げられているのかも分からない。視界を埋め尽くす金色の光の中で、耳元に複数の声が聞こえた。
『適合者を確認』
『魂の強度、基準を突破』
『聖剣との接続を開始』
それが誰の声だったのか、今でも分からない。
男にも女にも聞こえず、人間の感情を持っているとも思えない、ただ役割を果たすためだけの声だった。
次に目を開けた時、俺は見知らぬ石造りの広間へ倒れていた。
冷たい床へ頬をつけたまま顔を上げると、周囲には白い法衣を纏った数十人の男女が立っていた。彼らは俺を中心として円を描き、床へ刻まれた巨大な魔法陣へ杖を向けている。
天井は学校の体育館より高く、巨大な柱には金色の装飾が施されていた。壁には翼を持つ女神の絵が描かれ、広間の奥には剣を掲げる騎士たちが整列している。
誰も日本語を話していなかった。
聞いたことのない言葉が四方から飛び交い、そのすべてが倒れている俺へ向けられている。
「ここ……どこですか」
問いかけても、返事はない。
白い法衣を着た老人が俺の前へ歩み寄り、震える手で額へ触れた。次の瞬間、頭の奥へ鋭い痛みが走り、知らないはずの言葉が無理やり流れ込んできた。
意味。
文法。
発音。
膨大な知識を一瞬で押し込まれ、俺は床へ手をついて吐いた。
『成功だ』
『言語術式が定着した』
『勇者召喚は成功したぞ!』
聞こえてくる言葉が、理解できるようになっていた。
勇者。
召喚。
成功。
その単語の意味を把握しても、状況を受け入れることはできなかった。
「待ってください。俺は勇者なんかじゃありません」
立ち上がろうとしても、足へ力が入らない。周囲の人間たちは俺の混乱など気に留めず、互いに抱き合い、涙を流しながら喜んでいた。
『これで王国は救われる』
『魔王を倒せる』
『神託にあった異界の勇者だ』
その声を聞くほど、恐怖よりも怒りが強くなっていった。
「勝手に連れてきて、何を言ってるんですか。元の場所に戻してください」
広間の空気が止まった。
喜びに満ちていた人々の表情が曇り、誰も俺と目を合わせようとしなくなる。やがて奥に並んでいた騎士たちが左右へ分かれ、その間から一人の男が姿を現した。
赤と金の豪華な衣装。
頭には宝石のついた王冠。
年齢は五十を過ぎているように見えたが、背筋は真っ直ぐに伸び、周囲の人間とは明らかに異なる威厳を纏っていた。
アステリオン西部最大の国家、レグナス王国。
その国王、アルフォンス三世。
後に俺は、彼が国を守るためなら他国の民も、自国の兵士も、異世界から来た少年の人生さえ犠牲にできる人間だったと知ることになる。
『異界より招かれし勇者よ。まずは我々の言葉に耳を傾けてもらいたい』
「その前に、帰してください」
『それはできぬ』
国王は迷うことなく答えた。
「できないって、どういう意味ですか」
『召喚の術式は、一方通行である。異界から魂と肉体を呼び寄せることはできても、元の世界へ送り返す術は、我々には存在しない』
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
帰れない。
両親のいる家へ。
友人のいる学校へ。
牛乳を買って帰るはずだった日常へ。
もう二度と戻れない。
「嘘ですよね」
国王は何も答えなかった。
「帰す方法もないのに、俺を呼んだんですか」
『魔王軍の侵攻によって、我々は滅亡の危機に瀕している。神託は告げた。異界より来たる者が聖剣を手にし、魔王を討つと』
「そんなこと、俺には関係ないでしょう!」
叫び声が広間へ響いた。
騎士たちが一斉に剣の柄へ手を置き、魔法使いたちが俺へ杖を向ける。勇者として呼んだ相手へ向ける態度ではなかった。
彼らにとって俺は救世主であると同時に、自分たちの命令へ従わなければならない兵器だったのだろう。
『無礼だぞ、勇者』
騎士の一人が低い声で言った。
『陛下は貴様へ世界を救う名誉を与えようとしている』
「名誉なんかいりません。帰してください」
『できぬと言っている』
「なら、どうして俺を――」
言葉が続かなかった。
怒りも恐怖も限界を越え、喉の奥が震えて声を作れない。周囲にいる大人たちは、十六歳の少年を故郷から奪ったことより、召喚が成功した事実を喜んでいる。
その時、広間の巨大な扉が開いた。
外から運び込まれてきたのは、血まみれの兵士たちだった。
腕を失った者。
鎧ごと腹部を切り裂かれた者。
火傷で顔の形が分からなくなった者。
彼らを支える神官たちも傷だらけで、床へ赤い血が長い線を作っていた。
『北部城塞が陥落しました!』
伝令の叫びが広間を貫いた。
『魔王軍の先遣隊が国境を突破! 避難民を乗せた馬車も襲撃を受けています!』
召喚成功を祝っていた人々の顔から、喜びが一瞬で消えた。
国王は俺から伝令へ視線を移し、すぐに騎士たちへ命令を出し始める。広間は慌ただしく動き出したが、俺だけは床へ座り込んだまま、運ばれていく負傷者たちを見つめていた。
事情を知らない俺にとって、魔王軍も王国も同じ異世界の存在だった。
どちらが正しいのかも分からない。
この国が俺へ何を隠しているのかも分からない。
それでも、目の前で苦しんでいる人間が演技をしているわけではないことだけは理解できた。
担架の一つから、小さな手が落ちる。
乗せられていたのは兵士ではなく、十歳にも満たない少女だった。胸元には深い傷があり、白い服が血で真っ赤に染まっている。
『治癒術師を!』
『魔力が足りない! 先ほどの召喚で使い切った!』
少女の呼吸が弱くなる。
神官が必死に傷口を押さえていたが、流れる血は止まらなかった。
俺は無意識に立ち上がっていた。
「何か、できないんですか」
『勇者様、近づいてはなりません』
「助ける方法は?」
『今の我々には……』
返答を聞くより早く、広間の奥に置かれていた一本の剣が光を放った。
誰も触れていない。
それでも台座へ突き立てられていた白銀の剣は、俺へ呼びかけるように振動し、柄の周囲へ金色の光を集め始めた。
『聖剣が反応している』
『勇者を選んだのか』
周囲のざわめきを無視し、俺は剣へ近づいた。
柄へ手を触れた瞬間、熱とも痛みとも異なる感覚が腕を通り抜ける。頭の中へ膨大な力と、使い方だけが流れ込んできた。
剣術。
身体強化。
魔力操作。
そして、生命を繋ぎ止めるための治癒。
理解できないはずの知識を本能のように受け入れ、俺は台座から聖剣を引き抜いた。
眩い光が広間を満たす。
俺は少女のもとへ駆け寄り、教えられたわけでもない治癒魔法を傷口へ流し込んだ。淡い緑色の光が血に濡れた胸元を包み、切り裂かれていた皮膚と肉をゆっくりと繋いでいく。
完全に治せたわけではない。
魔力の使い方も分からず、傷を塞ぐだけで全身から力が抜けた。
それでも、消えかけていた少女の呼吸は戻った。
『奇跡だ』
『聖剣の勇者だ』
周囲から再び歓声が上がる。
だが、俺は喜べなかった。
少女を救えたことへの安堵と、この力を持っていると知られたことで、もう逃げられなくなったという恐怖が同時に胸へ押し寄せていた。
国王はそんな俺の前へ立ち、静かに頭を下げた。
『頼む、勇者よ。我々を救ってほしい』
今思えば、それはお願いではなかった。
帰る方法がないと告げられ。
目の前へ助けを求める人間を置かれ。
力まで与えられた。
選択肢が残されているように見せかけた、逃げ道のない命令だった。
それでも当時の俺には、すべてを拒絶して立ち去ることなどできなかった。
「……魔王を倒せば」
俺は聖剣を握りしめたまま、国王へ問いかけた。
「本当に、元の世界へ帰る方法を探してくれるんですか」
『王国のすべてを懸けて約束しよう』
それが真実ではないと知るのは、もう少し先のことだった。
この日。
天城湊という十六歳の少年は異世界へ連れ去られ、聖剣に選ばれた。
けれど、まだ勇者になったわけではない。
剣を握る覚悟も。
誰かを殺す覚悟も。
世界を背負う覚悟もなかった。
ただ帰りたいという願いと、目の前の命を見捨てられない弱さだけを抱えたまま、俺は王国に用意された部屋へ連れていかれた。
そして翌朝。
俺を勇者へ作り変えるための訓練が始まった。
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