第11話 元勇者、世界を救った力の一端を解放する
赤黒い魔石が脈打つたび、広間を満たす空気は目に見えない重圧によって軋み、床に散らばっていた小石が生き物のように震え始めた。それは魔物が死して残した単なる結晶ではなく、迷宮のさらに深部に潜む何者かと繋がった器官に近いものなのだろう。俺が剣先を向けた瞬間、魔石の表面に亀裂が走り、そこから溢れ出した黒い靄が天井へ昇ると、巨大な腕のような形を作って広間全体を覆い尽くした。
『なんだこれ』
『画面が暗くなったぞ』
『魔力濃度警報が限界を超えてる!』
配信画面の端では警告表示が何度も点滅し、先ほどまで流れ続けていたコメントさえ一瞬だけ途絶えていた。背後では神代が大剣を支えに立ち上がろうとしていたが、黒い靄から放たれる圧力を受けただけで鎧が軋み、傷口から再び血が滲んでいる。このままでは戦闘が始まる前に巻き込まれると判断した俺は、神代の前へ片手を向け、薄い光の障壁を展開した。
「そこから動かないでください。今から少し、力を使います」
「少し……だと?」
問い返す声へ答えるより先に、赤黒い魔石が砕け散った。深部へ続く壁が内側から爆ぜ、土煙と瓦礫を押し退けながら現れたのは、迷宮の天井へ届きかねないほど巨大な異形だった。複数の魔物を無理やり縫い合わせたような肉体に、竜の頭部と六本の腕を持ち、胸部には先ほどの魔石より遥かに大きな赤い核が埋め込まれている。
『識別不能』
『協会のデータに存在しないぞ』
『推定災害級って表示されたんだけど』
怪物が息を吸い込んだ瞬間、周囲の魔力が口腔へ吸い寄せられ、赤黒い光へ変換されていく。その収束速度と密度から考えれば、放たれた一撃はこの階層だけでなく、地上付近まで崩落させる可能性があった。魔力の奔流に引かれた瓦礫が宙へ浮き、壁面に刻まれた亀裂が音を立てて広がる様子は、迷宮そのものが怪物の一呼吸に耐えられず崩壊しかけているようだった。
俺は亀裂だらけの初心者用剣を見下ろし、静かに息を吐いた。魔王との最終決戦で振るった聖剣はなく、神々から与えられた加護もこの世界では感じられない。それでも、十年間に及ぶ戦いの中で身につけた剣技と魔力は、俺自身の魂と肉体に刻み込まれている。抑え込んでいた魔力をわずかに解放しただけで、俺の足元から黄金色の光が波紋となって広がり、赤黒い靄を押し返しながら広間の空気を塗り替えていった。
「懐かしいな」
世界を滅ぼす力を前に、恐怖より先に浮かんだのは、もう二度と戻らないと思っていた戦場の記憶だった。背後に守るべき者がいて、目の前に倒すべき敵がいる。その状況に立った途端、平穏な日々の中で眠っていた勇者としての感覚が、冷たい炎のように全身へ巡り、視界の中に存在するあらゆる動きがひどく緩慢なものへ変わっていく。
怪物の口から放たれた赤黒い奔流は、光と轟音で広間を呑み込み、触れた石床を瞬時に蒸発させながら一直線に迫ってきた。俺は逃げることも、防御魔法を重ねることもせず、崩れかけた剣を正面へ掲げると、その刃へ己の魔力を細く研ぎ澄ませながら集約していった。
「――斬る」
ただ一言と共に振り下ろした刃が、迫り来る破壊の奔流へ触れた次の瞬間、災害級と表示された攻撃は、巨大な布を裂くように左右へ分断された。二つに割れた閃光は俺と神代を避けて背後へ流れ、迷宮の壁を焼きながら消滅する。その中心を踏み越えた俺は、一歩で怪物との距離を消し去り、六本の腕が動き出すより早く、その懐へ入り込んでいた。
怪物の赤い瞳が俺を捉え、遅れて六本の腕が拳や爪を振り下ろしたものの、すでにそこに俺はいない。振り抜かれた攻撃が残像を砕き、迷宮全体を揺らす中、俺は怪物の肩から肩へ駆け上がりながら、亀裂の入った剣へ限界を超えるほど圧縮した魔力を流し込んだ。刃は甲高い悲鳴を上げ、今にも砕けそうに震えていたが、それでも必要なのは、あと一度だけだった。
「剣技――天断」
振り抜いた剣閃は眩い光の線となり、怪物の頭部から胸部の核、さらにその背後にある迷宮の岩盤までを垂直に断ち割った。遅れて空間そのものが震え、巨大な異形の肉体が左右へ分かれると、赤い核は声を上げる暇さえなく粉々に砕け散り、爆発しようとした膨大な魔力さえ剣圧によって遥か深部へ吹き飛ばされていく。
同時に俺が握っていた初心者用の剣も限界を迎え、根元から静かに折れた。広間へ戻った静寂の中、怪物の巨体が地響きを立てて崩れ落ち、その向こうには今の一撃によって穿たれた一直線の巨大な裂け目が、暗闇の果てまで続いていた。
『……』
『迷宮ごと斬ってない?』
『これが新人?』
『剣技って言ったよな?』
俺は手元に残った柄を見つめ、修理代では済まないだろうなと小さく息を吐いた。しかし次の瞬間、配信画面の同時接続者数が百万人を越え、神代が畏怖すら滲ませた目でこちらを見ていることに気づく。
「天城……お前は、本当は何者なんだ?」
誤魔化せる空気ではなかった。俺は崩れ落ちた災害級の魔物を振り返り、ほんの少し迷ったあと、配信カメラへ向けて口を開いた。
「昔、別の世界で勇者をしていました」
それは帰還して以来、誰にも告げてこなかった真実だった。
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