第10話 元勇者、迷宮の奥で本当の異常と対峙する
迷宮の奥から響いた咆哮は、ただ鼓膜を揺らしただけではなく、石壁や床を伝って広間全体へ重く染み込み、その場にいる者たちの呼吸まで一瞬だけ止めた。
先ほど倒したオークジェネラルも、初心者向けとされる十階層に出現していい魔物ではなかったはずだが、今の声に込められた魔力は明らかにそれを上回っている。異世界で数え切れないほど強敵と向き合ってきた俺には、姿を見なくても相手が単なる上位種ではないことが分かった。
「リーダーの名前と特徴を教えてください」
「神代蓮さんです。黒い重装鎧で、大剣を使います。私たちの中では一番強くて、A級への昇格候補にも選ばれていました」
ユナは仲間の傷を気遣いながらも、途切れそうになる呼吸を整えて答えた。その声音には、信頼しているからこそ生まれる焦りが滲んでいる。
自分たちを逃がすために一人で魔物を引きつけたというのなら、その神代という男は少なくとも、仲間を置いて逃げるような人間ではないのだろう。
勇者時代の俺も似たような選択を何度もしてきたからこそ、今どれほど危険な状況にいるのかを想像できてしまった。
「ここで救助班を待っていてください。俺が探してきます」
「待ってください。私も行きます」
「まだ魔力が戻っていません。今の状態では、守る対象が増えるだけです」
少し厳しい言い方になったが、彼女を拒絶したいわけではない。仲間を案じる気持ちは理解できるものの、今のユナは杖に縋らなければ立っていることさえ難しく、上位魔物との戦闘に巻き込まれれば命を落とす可能性が高い。
俺が視線を逸らさずに告げると、彼女は悔しそうに唇を噛んだあと、やがて小さく頷いた。
「……絶対に、連れて帰ってきてください」
「そのつもりです」
俺はそれだけ答えると、小型カメラを連れたまま広間の奥へ走り出した。背後ではコメント欄が凄まじい速度で流れていたが、今は読む余裕がない。
遠くから聞こえる金属音と地響きを頼りに、分岐を迷わず選び、崩れた石柱や砕けた床を飛び越えていくにつれ、空気に混じる血臭と魔力の濃度は急速に増していった。
『本当に一人で行くのか』
『協会の救助班を待て』
『さっきの咆哮、A級クラスだぞ』
視界の端に流れた警告を見ながら、俺は速度を落とさなかった。危険度の等級がどれほどであろうと、すでに誰かが命を懸けて時間を稼いでいる以上、救援を待っている間に手遅れになる可能性の方が高い。
俺はもう勇者ではないし、この世界を救う義務も背負っていない。それでも、助けられる人間を見捨てて生きる方が、俺にとってはよほど難しかった。
やがて巨大な扉が壊されたような跡を抜けると、前方に円形の大広間が現れた。
中央では黒い重装鎧を纏った男が片膝をつき、大剣を杖代わりにして辛うじて立っている。鎧は深く抉られ、肩から流れた血が床を濡らしていたが、それでも男は逃げず、仲間たちがいる方向へ続く通路を塞ぐように立ちはだかっていた。
その正面には、六メートルを超える巨体を黒い鎧で覆い、頭部から湾曲した二本の角を生やした魔物がいた。片手に握る戦槌は人間の胴体ほど太く、周囲には先ほどまで従えていたと思われるオークたちの死体が転がっている。
仲間すら踏み潰して進むその姿からは、統率者というより破壊そのものに近い印象を受けた。
『オークキングだ』
『しかも通常個体より大きい』
『推定A級上位、下手したらS級寄りだぞ』
コメントから得た情報を頭の片隅へ置きながら、俺は広間へ踏み込んだ。重装鎧の男――神代蓮がこちらを振り返り、俺の姿を見るなり険しい表情を浮かべる。
「誰だ……! ここへ来るな! 今すぐ仲間を連れて逃げろ!」
「仲間なら無事です。ユナさんたちに頼まれて、迎えに来ました」
「ユナが……?」
張り詰めていた神代の目に一瞬だけ安堵が浮かんだものの、その直後、オークキングが戦槌を持ち上げた。狙いは明らかに負傷した神代であり、避けるだけの体力が残っていないことも分かっているらしい。俺は二人の間へ入り込み、振り下ろされた戦槌を剣の腹で受け止めた。
衝撃によって床が大きく沈み、広間の天井から細かな砂埃が降り注ぐ。初心者用の剣には深い亀裂が入り、あと一度まともに受ければ折れるだろう。それでも俺の腕はほとんど動かず、オークキングの巨体だけが予想外の抵抗に揺らいでいた。
「なるほど。さっきの奴よりは強いですね」
「お前……何者だ?」
「昨日、探索者になったばかりの新人です」
「そんな新人がいるか……!」
神代の叫びと同時に、オークキングが戦槌を引き戻し、今度は両手で横薙ぎに振るった。俺は神代を巻き込まないよう前へ踏み込み、亀裂の入った剣で刃を逸らすと、そのまま相手の懐へ潜り込む。異世界のオークキングは心臓を二つ持っていたが、この世界でも同じとは限らない。ならば弱点を探る必要がないほど、確実に倒せばいい。
俺は剣へ魔力を流し込み、折れる寸前の刃を淡い光で包み込んだ。
「少しだけ、本気で斬ります」
次の瞬間、広間を満たしていた咆哮も圧力も、ただ一筋の剣閃によって静かに断ち切られた。
オークキングの巨体は数歩だけ前へ進んだあと、斜めにずれた上半身を床へ崩れ落とし、遅れて黒い血を噴き上げた。しかし、その胸部から転がり出た魔石は、通常の魔物が持つものとは異なり、脈打つ心臓のように赤黒い光を放っている。
俺がそれへ目を向けた瞬間、迷宮のさらに深い場所から、先ほどとは比べものにならない魔力が静かにこちらを見返した。どうやら、この異常発生を引き起こしているものは、まだ別に存在しているらしい。
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