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第1話 弱き剣士、村を出る



カゲトが村を出ると決めたのは、十八の春の終わりのことだった。


特別な事件があったわけではない。

村長から呼び出されたわけでも、追い出されたわけでもない。

ただ、彼の中の何かが、もう、ここでは育たないと知ってしまったのだ。


夜明け前。

カゲトは古びた板間で、ひとり黙々と荷を整えていた。


着替えが二着。

継ぎ接ぎだらけの外套が一着。

父の遺した薄手の長剣。

母の縫った布袋に、固焼きのパンと、塩漬けの肉が少し。

火打石、水筒、そして、村を出るために少しずつ貯めた銅貨が一握り。


それで全部だ。


「これで、生きていけるかな」


呟いてから、すぐに、自分の言葉に少しだけ笑ってしまう。

当然だ、と思ったわけではない。

むしろ、生きていけないかもしれないと、心のどこかが冷静に告げていた。


それでも、彼はもう決めていた。


窓の外を見る。

山際が白み始め、村の屋根がぼんやりと浮かび上がっている。

畑の畔道を、誰かが歩いていく。あれは隣の家のおじさんだ。朝が早い人だ。

カゲトは会釈の代わりに、頭の中だけで深く頭を下げた。


自分は、どの家からも、どの誰からも、見送られない。

それは寂しいことではない。

ただ、そういうことだ。


カゲトは荷を背負った。

扉を開ける。

外は、薄青い光に満ちていた。


土の匂いがした。

それは、十八年ぶんの、彼の朝の匂いだった。


村から街道までは、徒歩で半日ほどの道のりだった。


最初の一刻は、まだ村のにおいがしていた。

土と、薪と、ほのかな家畜の匂い。

カゲトが生まれてから今日まで、ずっと身体に染みついていた匂いだ。


それが、ある瞬間、ふっと消えた。


代わりに、若葉と、湿った苔と、遠い水の匂いが漂い始める。

風の質まで、違う気がした。


カゲトは立ち止まり、ゆっくりと振り返った。


村は、もう小さく見えた。

山の襞に守られるように寄り添った、屋根の低い集落。

あの中で、自分を「役立たず」と呼ぶ声があり、

あの中で、自分が黙って剣を振るっていた朝があった。


恨みは、なかった。

ただ、もう、戻らないのだろうとだけ、わかった。


「……ありがとう」


誰に向けてでもなく、彼はそう言った。

育ててくれた風景に向けて、というのが、いちばん近かったかもしれない。


そしてもう一度、前を向いた。


街道に出ると、世界の広さが、足の裏から伝わってきた。

踏み固められた道は、どこまでも続いていて、知らない名前の山がいくつも遠くに連なっている。

こんな景色は、村からは見えなかった。

ただ歩いているだけで、自分の中の何かが、薄皮を剥がすようにほどけていく。


途中、行商人の荷馬車が、後ろから追いついてきた。


「おい、若いの。乗っていくか?」


しわがれた声に振り返ると、痩せた老人が手綱を握っていた。日に灼けた顔に、人の好さそうな皺が深く刻まれている。

カゲトは丁寧に頭を下げた。


「ありがとうございます。でも、自分の足で行きたいので」


老人は少し驚いた顔をしてから、ふっと笑った。


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