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第16話 リファーラの宵


その日の野営は、昨日よりも、すこしだけ、手早かった。

野営に向く場所を見つけたのは、川辺を離れて、街道を、もう半日ぶんほど歩いた、林のへりだった。

陽は、もう、低い梢の隙間から、橙色の細い光を、ぽつ、ぽつ、と零し始めていた。

「ここ、いいですね」

「うん」

「昨日のと、似てますね、雰囲気」

「似てますね」

ふたりは、同じところを、同じように、手分けして始めた。

ステラは、もう、自分から、するすると林のなかへ入って、乾いた小枝を集め始めた。

カゲトは、地面を一周してから、窪みを掘って、石を半円に並べた。

火打石が、しゅっ、と乾いた音を立てた。

火花は、昨日と同じように、薄い乾いた草に落ちて、薄い赤を、見せた。

「うん、上手」

カゲトが、つい、自分に向かって、呟いてしまった。

「カゲトさん、いま、自分で自分を、ほめましたね」

「あ、ばれました」

「えへ、聞こえてました」

ふたりは、ふっ、と、笑い合った。

夕餉は、昨日の残りの、固焼きパンと、塩漬けの肉と、それから、ステラが新しく加えた、ノコギリ草入りのお茶だった。

朝のお茶よりも、ほんの少し、香りが、深くなっていた。

「お祖母ちゃんが言ってたとおりです。露がついてた葉っぱは、ぜんぜん、ちがうって」

「ほんとですね。なんか、口のなかに、林の匂いが、戻ってくるみたいです」

「えへ。林、ありがとう、ですね」

「ですね」

火を挟んで、ふたりは、しばらく、お茶を啜っていた。

昨夜のような、長い話は、出てこなかった。

ただ、火のはぜる音と、お茶を啜る音と、それから、ときどき、お互いの「ふっ」という、息のような笑いだけが、ふたりのあいだを、たんたん、と通っていた。

「カゲトさん」

「はい」

「腕、痛みません?」

「ぜんぜん」

「ほんと?」

「ほんと、です。ステラさんの、ノコギリ草、すごく、効いてます」

「えへ。よかった」

ステラは、火明かりに、自分の右の手のひらを、ぱっ、と広げて、しばらく、眺めていた。

それから、その手のひらを、軽く、握ってみた。

何かを、握る、練習のような、握り方だった。

カゲトは、それを、横目で、見ていた。

何も、言わなかった。

ただ、彼女が握ったり、開いたりしている右の手のひらを、火の橙色が、ふっ、ふっ、と、撫でているだけだった。

見張りは、また、二交代にした。

今夜は、前半をステラ、後半をカゲト。

「私、夕方に少し、お昼寝、しちゃったので、先、起きてるほうが、いいです」

「あ、それ、いつのまに」

「川辺で、カゲトさんの腕を、巻いたあとに、ちょっと」

「気づかなかった、です」

「えへ。カゲトさんも、寝かけてたから、です」

「あ……」

ふたりは、また、笑った。

毛布のなかに身体を入れて、目を閉じる前に、カゲトは、火のそばに座ったステラの背中を、もう一度、見た。

毛布をきちんと肩に羽織って、背筋を、すっ、と伸ばして、火の番をしている、その小さな背中。

昨日、明け方に、丸まって座っていた背中とは、すこしだけ、ちがった。

「ステラさん」

「はい」

「無理は、しないでくださいね」

「無理、しません。ちゃんと、起こします」

「ぜったい、ですよ」

「ぜったい、です」

カゲトは、すこし、安心したような声で、目を閉じた。

ステラの、火の番の気配が、毛布の向こうから、たんたん、と、伝わっていた。

それは、二日前には、まだ、なかった音だった。


三日目の朝は、空が、ぱあっと、晴れていた。

雲が、ほとんど、なかった。

野営地を、いつものように、ふたりで、片付けてから、街道に戻った。

朝の風は、もう、冬のへりのものではなく、すこしだけ、春の根っこのほうに、近づいていた。

「カゲトさん、空、すごいです」

「ですね」

「青、っていうより、もっと、薄い、銀色みたいな青、です」

「銀色の、青」

「お祖母ちゃんは、こういう色を、明けの色、って呼んでました」

「明けの色」

「夜が、ちゃんと、明けたぞ、っていう、空の色」

「いい色、ですね」

ステラは、両手を、軽く後ろに組んで、空を、見上げながら、歩いた。

杖は、後ろの手のなかで、軽く、揺れていた。

街道は、徐々に、今までより、ひと幅ぶん、広くなってきていた。

ところどころ、轍の跡が、土のうえに、はっきりと、二筋、残っている。

荷馬車が、ときおり通る街道、ということだった。

午前の中ほどに、街道のへりで、ふたりは、別の徒歩の旅人と、すれ違った。

巡礼らしい、首から木の珠をかけた、年配の女の人だった。

「リファーラから、来たかい」

「いえ、リファーラに、向かっています」

「そうかい。あと半日も歩けば、街影が見えるよ」

「半日、ですか」

「街道が、すこし上りになるところがある。そこを上りきると、左手、ぱあっと、見える」

「ありがとうございます」

「気をつけてな」

巡礼の女の人は、にこっと、片頬で笑って、また、ファールスのほうへ、ゆっくりと歩いていった。

街道を歩く人は、本当に、みんな、こうなんだな、と、カゲトは、すこし、思った。

ファールスを出てから、街道で会った人は、井戸の老夫婦、行商の老人、そして、いまの巡礼の女性。

四人とも、なにか、こちらに、ひと言だけ、温度のあるものを、置いていってくれた。

「街道の人、ほんとに、優しいですね」

ステラが、また、しみじみと言った。

「ほんとに、です」

午後に入って、しばらく歩くと、街道は、たしかに、ゆるやかに、上り始めた。

土のうえに、ところどころ、平たい石が、踏み均されたように、嵌まっていた。

街道らしい、整えられ方を、しはじめている、という感じだった。

「カゲトさん、これ、たぶん、上り始めです」

「ですね」

ステラの足取りが、すこし、早くなった。

カゲトも、つられて、足の運びを、ほんのすこし、強めた。

上りは、長くは、つづかなかった。

ふたりが、軽く息を弾ませながら、頂のあたりに辿り着くと、

街道は、すうっ、と、向こうへ、ゆるやかに下り始めていた。

そして、その下りの、向こう、左手側に、

灰色がかった、屋根の塊が、ぽつ、ぽつ、と、かたまって、見えた。

「……あ」

ステラの足が、止まった。

カゲトの足も、止まった。

それは、街、だった。

ファールスよりは、すこし、小さい。

しかし、街道沿いの宿場よりは、ずっと、大きい。

街の真ん中あたりに、ひと筋、川のような、銀色の細い線が、すうっと、入っているのが、ここからでも、よく見えた。

街の屋根の色は、灰色というよりも、やや赤みのある、瓦のような色合いで、

そのうえに、ほうぼうから、薄い炊事の煙が、ぽ、ぽ、と立ち上っている。

「リファーラ、ですね」

カゲトが、低く、言った。

「リファーラ、ですね」

ステラが、繰り返した。

ふたりは、しばらく、その街影を、ただ、眺めていた。

ステラの目元が、ほんの少し、潤んでいた。

涙、というほどの、湿りでは、なかった。

ただ、長い距離を、ふたりで、ちゃんと歩ききった、その実感が、目の奥で、ふっ、と、揺れたような、感じだった。

「ファールス、出てから、四日ぶん、ですね」

「うん。ちゃんと、来ました、ふたりで」

「えへ」

「えへ」

街は、近づくにつれて、空気の匂いが、変わっていった。

土と草の匂いに混じって、薄い、煙の匂い。

それから、ほんの遠くに、誰かの炊事の、香ばしい匂い。

街の入り口に、立派な城壁は、なかった。

ただ、街道の両脇に、低い石垣と、もう古びた門柱のようなものが、ぽつんと、立っていた。

門柱のそばに、薄汚れた服の、しかし目つきの落ち着いた、初老の男が、ひとり、椅子に座っていた。

「冒険者さんかい」

「はい」

「どこから」

「ファールスから、です」

「ふたりで、街道を?」

「はい」

「えらい、えらい」

男は、椅子から、軽く立ち上がって、革製の小さな帳面に、ふたりの名前を、書き留めた。

「リファーラの街は、夕方の鐘までは、好きに見ていい。ただ、夜は、川向こうの裏路地、あんまり寄るなよ」

「はい」

「冒険者ギルドは、街の真ん中の広場の、北の角。看板に、剣と杯の絵が、出てる。今日中に、登録しときな」

「はい」

「あと、宿は、いっぱいあるが――」

男は、言いかけて、ふたりの様子を、ちらり、と、見て、

「初めて来たかい」

「はい、初めてです」

「なら、街道を、まっすぐ、しばらく行って、川を渡ったすぐ右側、白い壁の、二階建ての宿。あれが、たぶん、おまえさんたちには、ちょうどいい」

「白い壁の、二階建て」

「主人は、髭の濃い、声のでかい男だ。気のいい奴だよ」

「ありがとうございます」

ふたりは、礼を言って、街道を、街の中ほどへ、向かって歩き始めた。

ふしぎな感じだった。

街道の続きが、そのまま、ふつうに、街の通りに、なっている。

道の両脇に、家が、ぽつ、ぽつ、と立ち始めて、それが、いつのまにか、ぎっしりと、並ぶようになる。

人の声が、ふいに、増える。

牛車の、ぎい、という車輪の音。

子どもの、笑い声。

鍛冶屋の、かん、かん、という、薄く遠い、金属の音。

「カゲトさん、人、多いですね」

「ですね」

「ファールスより、すこし、にぎやか、かも」

「ぼくも、そんな気が、します」

街の真ん中近くで、街道が、ふっ、と橋に変わった。

下を流れる川は、街道の上から見下ろしたときよりも、ずっと、近くで、銀色に、煌めいていた。

橋を渡って、右側を、すこし行くと、たしかに、白い壁の、二階建ての建物が、ぽつんと、街並みのなかから、目立って、立っていた。

軒先の上に、木の看板が、ひとつ。

そこには、丸っこい字で、「ふたつ星亭」と、書かれていた。

「……ふたつ、星亭」

ステラが、看板の文字を、口のなかで、読んだ。

「いい名前、ですね」

「ぼくも、そう、思います」

ふたりは、顔を、ちらり、と見合わせて、すこしだけ、笑った。

入り口の、二枚扉の、片方を、押して、なかに入ると、

すぐに、低い天井の、薄暗い、しかし、ぽっと暖かい、酒場兼食堂の空間が、広がっていた。

奥のカウンターから、太い声が、飛んできた。

「いらっしゃい」

カウンターの向こうにいたのは、たしかに、髭の濃い、肩の張った、四十くらいの男だった。

腕まくりした袖口から、太い前腕が、覗いていた。

「冒険者かい」

「はい」

「素泊まり? 二食付き?」

「えっと……二食付きで、お願いします」

「ふたり、ふた部屋? それとも、ひと部屋?」

「ふた部屋で、お願いします」

カゲトが、そう言うと、ステラが、ほんの少し、頬を赤くしながら、しかし、すこし、安心したように、目を伏せた。

主人は、にやり、と笑って、宿帳を、カウンターのうえに、ぽん、と置いた。

「名前と、出身、どこから来たか、書いてくれ」

ふたりは、順番に、宿帳に、すこし慎重な手つきで、書き込んだ。

書き終えてから、カゲトが、ふと、思い出して、口を開いた。

「あの……」

「ん?」

「途中で、行商のおじさんに、ひと言、伝えるように、言われて」

「行商?」

「驢馬を引いた、ご老人で。乾し葡萄を、くださって」

主人の眉が、ぴくっ、と、上がった。

「東の、ジジイ、って」

「あっ」

主人は、しばらく、口を、ぽかんと、開けてから、

「あのジジイ、まだ、葡萄、配ってんのか」

ぐは、と、肩を揺らして、笑い出した。

太い、店ぜんたいに広がるような、笑い声だった。

「あいつな、若いのに、誰彼かまわず、葡萄、押しつけるんだよ。代金、絶対、受け取らねえ」

「は、はい、受け取ってもらえなくて」

「ほっとけ、ほっとけ。あれは、あいつの、生きがいみたいなもんだ。代わりに、おまえさんたちが、ちゃんと、リファーラまで、辿り着いてくれただけで、あのジジイは、もう、満足してるよ」

「……」

「うちの宿で、あいつの名前出した冒険者は、おれも、悪いようには、しねえ」

主人は、にやりと、もう一度、笑って、宿帳を、ぱたん、と閉じた。

「部屋、二階の、奥のふたつ、使え。荷、置いたら、晩飯、食いに降りてきな。スープ、いま、ちょうどいい火加減だ」

「はい」

「それから――」

主人は、太い指で、ステラのほうを、すこし、しめした。

ぶしつけ、というより、何かを、確認するような指の動きだった。

「そっちの、銀のお嬢ちゃん」

「は、はい」

「夜、ひとりで、宿の外、出歩くなよ。リファーラは、いい街だが、川向こうの裏は、まだ、すこし、悪いのが、いる」

「はい」

「カゲト、だっけ。連れの兄ちゃん」

「はい」

「夜は、ちゃんと、気にかけてやれよ」

「はい」

短い、まっすぐな、口の出し方だった。

押しつけがましくは、なかった。

ただ、街の宿の主人が、街道から来た新人冒険者に、当たり前のように、置いていく言葉、という感じだった。

「ありがとうございます」

カゲトが、頭を下げた。

ステラも、深く、頭を下げた。

ふたりは、それぞれの鞄を持ち直して、奥の、木の階段を、軋ませながら、上っていった。

二階の、奥のふたつの部屋。

それぞれの扉を開けると、なかは、想像していたよりも、ずっと、簡素で、しかし、ずっと、清潔だった。

木のベッドが、ひとつ。

小さな卓と、椅子が、ひとつ。

窓には、薄手の、白い布が、ふわっと、垂れていた。

カゲトが、自分の部屋の、窓のそばに立つと、

窓の向こうに、街の屋根の、瓦色が、どこまでも、ゆるやかに、広がっていた。

すこし離れたところに、街を二つに分けている、銀色の川が、まだ、煌めいていた。

「カゲトさん」

廊下のほうから、ステラの声が、した。

「はい」

「窓、開けてみてください」

カゲトが、薄手の白い布を、すこし、片手で寄せて、木の窓を、ぎい、と押し開けると、

街の、夕暮れ前の、温い空気が、ふっ、と、室内に流れ込んできた。

そのなかに、ぽん、ぽん、という、薄い、楽器のような音が、混じっていた。

街のどこかで、誰かが、太鼓のようなものを、子どもの遊びで、叩いている、そんな音だった。

「……いい、ですね」

「いいですね」

ふたりの声は、別々の窓から、しかし、ほとんど、同じ温度で、街の屋根のうえに、ぽつ、と、落ちた。

リファーラに、ふたりは、辿り着いた。

四日ぶんの、街道の道のりを、ちゃんと、ふたりぶんの足で、歩いて。

カゲトは、しばらく、窓のへりに、両手をかけて、街の屋根を、見ていた。

それから、自分の左の二の腕の、白い布の結び目に、ちらり、と目をやった。

布は、まだ、ちゃんと、傷を、覆っていた。

ステラの手の温度が、その布の上に、まだ、ほんのすこしだけ、残っているような気が、した。

「ステラさん」

「はい」

「ちょっと、休んだら、ギルド、行きましょうか」

「はい」

「そのあと、晩ご飯」

「はい。スープ、楽しみです」

「ぼくも、です」

ふたりの会話は、街の屋根の、夕方の光のなかへ、ゆっくりと、溶けていった。

リファーラの、最初の宵が、

そうやって、

ふっ、と、

ふたりの肩のうえに、

降りてきていた。


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