第15話 行商の影
二日目の朝は、空に薄い雲が、刷毛で撫でたみたいに、ひと筋だけ、流れていた。
野営地を離れて、街道に戻ったふたりの足取りは、昨日よりも、もう少しだけ、馴染んでいた。
朝の冷たい空気が、肩と首のあたりから、ゆっくりと、抜けていく。
陽が、薄雲の向こうから、薄く差し始めて、街道の両脇の草むらに、ところどころ、銀色のしずくのような露を、残していた。
「カゲトさん、見てください」
ステラが、街道のへりで、しゃがみ込んだ。
「あ、これ、お祖母ちゃんが好きだった葉っぱです。朝露がついた状態で摘むと、香りが、ぜんぜんちがうんですよ」
「なんていう葉っぱですか」
「えっと……、村の言葉だと、ノコギリ草、って呼んでました。本当の名前は、知らないです」
「ノコギリ草」
「葉っぱのへりが、ギザギザ、してるから」
ステラは、葉っぱを、ふた、み、と、慎重に摘んで、布の小袋にしまった。
「夜のお茶に、足してみますね」
「楽しみです」
ステラは、満足そうに、立ち上がった。
杖の先で、軽くとんとん、と地面を叩いてから、また、街道を歩き始める。
杖は、もう、彼女の身体の一部のような動きをしていた。
しばらく行くと、街道の前のほうから、かたん、かたん、と、軽い車の音が、聞こえてきた。
やがて、低い荷車を引いた、痩せた驢馬と、その手綱を引く老人の姿が、こちらに向かって、ゆっくりと近づいてきた。
驢馬の背には、布をかぶせた荷物が、ちょこんと積み上がっていた。
「お、若いのが二人」
老人は、近づきながら、しわのなかから、にっと笑った。
歯が、何本か、欠けていた。
「こんにちは」
「こんにちは」
ふたりは、街道のへりに、すこしだけ寄って、道を譲った。
老人は、驢馬の手綱を引いて、ゆっくり立ち止まった。
「どこまで行く」
「リファーラまで、です」
「リファーラかい。あと二日ぶんは歩くよ。野営、慣れてるかい」
「……昨日、初めて、しました」
カゲトが、正直に言うと、老人は、ふっ、と肩を揺らした。
「初めてなら、それでよく、生きてここまで戻ってきたな」
「あの、生きてとは……」
「冗談、冗談。リファーラまでの街道は、人もそこそこ通るから、ひどいことには、ならんよ。ただ、あと半日ぶんくらい先の、左側の藪のあたりは、ちょっと気をつけな」
「藪、ですか」
「野犬、出る。ここ最近、群れが、街道筋まで降りてきとる。三、四匹くらいで、若い旅人を狙う。気の弱いのは、すぐ食われる」
「……」
「お嬢さんがいると、特に狙われやすい。野犬は、群れで、いちばん細そうなほうから、狙うんだ」
ステラの肩が、ほんの少しだけ、こわばった。
カゲトは、それに気づいて、自分の腰のあたりに、手を置いた。
剣の鞘の感触が、てのひらに、ふっと馴染んだ。
「ありがとうございます。気をつけます」
「ああ。それから、これ、持っていきな」
老人は、荷車の脇から、小さな油紙の包みを、ひとつ、取り出した。
「これは……?」
「乾し葡萄。野犬避けにはならんが、糖は、人を、強くする。腹が空いたら、ちょっとずつ、口に入れな」
「あの、お代は」
「いらん。年寄りが、若いのに渡せる、ちょっとしたもんだ。それだけだよ」
老人の声には、押し付けがましさは、なかった。
ただ、街道で何度も、こうしてきたんだろう、というような、慣れた優しさだけが、あった。
「……ありがとうございます」
カゲトが、両手で、包みを受け取った。
ステラも、深く、頭を下げた。
「リファーラに着いたら、宿の主人に、東のジジイに葡萄もらった、って言いな。にやっと笑うから」
「はい」
「達者でな」
老人は、また、軽く手綱を引いた。
驢馬は、特に何も思っていなさそうな顔で、また、かたん、かたん、と、街道を、ファールスのほうへ歩き始めた。
ふたりは、その後ろ姿が、街道の曲がり角に消えるまで、しばらく、見送っていた。
「……あったかい人、でしたね」
ステラが、小さく言った。
「うん。ぜんぶ、あったかかった、です」
カゲトは、油紙の包みを、自分の鞄の、深い場所に、そっとしまった。
それは、糖というよりも、なにか、もっと別のものを、しまっておくみたいな手つきだった。
陽が、ちょうど、頭の真上に、ぽつんと、ついた頃。
街道の左側、老人が言っていた、藪のあたり。
笹のような、背の低い葉が、街道のすぐ脇まで、密に茂っている場所が、つづいていた。
風は、止んでいた。
葉ずれの音は、ない。
そのかわりに、ふいに、ひゅっ、と、息のような音が、藪の奥から、聞こえた。
カゲトの足が、すっ、と、止まった。
ステラも、つられて、足を止める。
「……ステラさん、半歩、後ろに」
声は、ふだんと、変わらないくらいの、低さだった。
ステラは、何も訊かずに、すっ、と、半歩、下がった。
藪の葉が、向こうのほうで、すっ、と、不自然に、揺れた。
ひと筋ではなかった。
二筋、三筋。
低い位置に、低い位置に、いくつかの線が、藪のなかを、こちらに向かって、寄ってきていた。
「……ふたつ、みっつ。たぶん、四」
カゲトが、ささやいた。
「ぼくが、前に出ます。来たら、いちばん右の一頭に、光、ひとつ、お願いします」
「は、はい」
ステラの返事は、すこし、震えていた。
それでも、彼女は、杖を、両手で握り直して、深く、息を吸った。
藪の縁から、最初の一頭が、ふっ、と、姿を現した。
予想したとおり、痩せた野犬だった。
毛は、所々に泥が固まっていて、目だけが、不釣り合いに、ぎらりと光っていた。
つづけて、二頭、三頭。
老人の言ったとおり、たしかに、四頭いた。
野犬は、群れの目で、ふたりを、ひとくくりに値踏みしていた。
そして、当然のように、いちばん細く、いちばん弱そうに見える、ステラのほうへ、低い喉で、唸った。
「カゲトさん」
「うん、わかってます」
カゲトは、抜剣しなかった。
鞘ごと、左の腰から、軽く、半身分だけ、ずらした。
それから、街道のうえで、ゆっくりと、ステラの斜め前に、入った。
「いまから、こっち、向きます」
そう、ステラに言って、
カゲトは、わざと、自分の足で、土を、たんっ、と、強めに、踏んだ。
野犬の四つの目線が、いっせいに、自分のほうへ、ぐるんと、向いた。
「来てください」
低く、彼は、言った。
野犬への呼びかけのようでも、自分への呼びかけのようでも、あった。
最初の一頭が、低く、まっすぐに、跳んだ。
カゲトの身体は、ふっ、と、横に、半歩だけ、ずれた。
野犬の牙は、空を噛んだ。
そのままの動きで、カゲトは、抜き打ちに、刃の腹を、野犬の脇腹に、ぱしんっ、と、軽く打ち込んだ。
斬らなかった。
刃の腹で、衝撃だけ、入れた。
野犬は、きゃん、と、ひと声、悲鳴をあげて、藪のほうへ、転がるように、飛び退いた。
つづけて、二頭目が、横から、ステラの方向へ、突っ込んできた。
「――光、っ」
ステラが、杖を、ぐっと、突き出した。
杖の先で、薄い銀色の光が、ぱあっ、と、はじけた。
魔法というより、強い、まっすぐな光だった。
野犬の顔の、ちょうど、目のあたりで、それは、はじけた。
野犬は、視界を奪われて、きゃうん、と、つんのめって、横に転がった。
三頭目と、四頭目は、その光で、いったん足を止めた。
カゲトは、その一瞬の、間を、見逃さなかった。
すっ、と、間合いを詰めて、
三頭目の鼻づらの、すぐ前に、剣の切っ先を、ぴたり、と、突き出した。
斬りはしない。
ただ、刃の冷たさだけを、その鼻先に、見せた。
野犬は、本能的に、後ずさった。
四頭目は、それを見て、もう、戦意をなくしていた。
「行け」
カゲトが、低く、言った。
「行けったら」
三頭目と四頭目は、ぐる、と一度、喉を鳴らしてから、藪のなかへ、するすると、退いていった。
光に目をやられた二頭目も、ふらつきながら、群れの後を追った。
最初に脇腹を打たれた一頭は、すこし離れたところで、まだ、唸っていたが、ほかの三頭の去った方向を見て、結局、自分も、その後をついていった。
藪の音が、静かになるまで、カゲトは、剣を、構えたままだった。
葉のうえに、しんと、沈黙が降りた。
カゲトは、ようやく、ふっ、と、肩から、力を抜いた。
そのとき、自分の左の二の腕の外側に、ちりっ、と、薄い、痛みが、走った。
最初の一頭の牙が、すれ違いざまに、上着の袖をかすった、その勢いで、皮膚を、ほんの少し、ひっかいていたらしかった。
血が、上着の青い布に、ぽつ、ぽつ、と、滲んでいた。
「カゲトさんっ!」
ステラが、ぱっと、彼の左腕に、駆け寄った。
「血が、出てます」
「あ……、ほんとだ」
「ほんとだ、って、痛みません!?」
「いま、気づきました」
「もう……っ! もう、っ……」
ステラは、上手く言葉にならない感じで、彼の腕を、両手で、軽く、抱えた。
その、ぎゅっ、と、寄せられた両手の力の、強さに、
カゲトは、うまく、何も、言えなかった。
ただ、
街道のうえに、自分とステラの、ふたつぶんの息の音だけが、しばらく、残っていた。
街道から、すこし下りたところに、細い川が、流れているのを、ふたりは、見つけた。
老人の言っていた藪を、もうしばらく、歩いた、その先のことだった。
ステラが、強引に、カゲトを、その川辺まで、連れて行った。
「ここで、ちゃんと、洗います」
「ぜんぜん、たいしたこと、ないです」
「たいしたこと、なくても、洗います。お祖母ちゃんが、傷は、まず、ぜったい、水でぜんぶ、洗えって、言ってたんです」
「……はい」
カゲトは、もう、何も言わなかった。
言える雰囲気では、なかった。
川の水は、思ったよりも、冷たかった。
カゲトが、上着の袖を、肩のあたりまで、慎重にめくると、白っぽい、細い腕の外側に、長さで言うと、ちょうど、指二本くらいの、浅い、引っかき傷が、走っていた。
血は、もう、ほとんど止まっていた。
ステラは、自分の布袋から、清潔な布を取り出して、川の水に、くたっ、と、浸した。
それを、ぎゅっ、と、絞ってから、傷の周りに、そっと当てた。
「……痛い、ですか」
「ぜんぜん」
「ほんと?」
「ほんと、です」
「……痩せてます、すごく」
「あ、そういうのは、もう、いいです」
「ごめんなさい」
ステラは、ふっ、と、ちいさく笑ってから、傷のうえに、ノコギリ草の葉を、二、三枚、重ねた。
朝、街道の縁で、彼女が、慎重に摘んだ、あの葉っぱだった。
「お祖母ちゃんが、これ、ちょっとした傷の、止血と、化膿止め、って」
「……ステラさんの薬草、本物だ」
「えへ。本物、です」
ステラは、その上から、もう一枚、清潔な布を巻いて、結び目を、ちょっと、不器用に、結んだ。
きつくは、なかった。
ゆるくも、なかった。
ちょうど、温かい温度くらいの、ちょうどよさだった。
「これで、いいです」
「ありがとう、ございます」
「……カゲトさん」
「はい」
「ぜんぶ、私のせい、です」
「え」
「魔法、撃つ前の、私が、いちばん、無防備で。だから、カゲトさん、私の前に、出て」
ステラは、カゲトの腕に巻いた布のへりを、指で、すこし、なぞった。
水で濡れた指先が、布の上を、ゆっくり動いた。
「私、自分でも、近いところに来た子を、ちゃんと、追い払えるように、ならなきゃ、です」
「……」
「魔法って、私、まだ、ぜんぜん、早く撃てなくて。詠唱というか、構えというか、みたいなのが、すこし、要るんです。そのあいだに、もう、来られちゃうんです、距離」
「うん」
「だから、私も、なんか、近くで、自分を、守るやり方、覚えたいです」
「うん」
カゲトは、しばらく、川の水面のほうを、見ていた。
水面に、午後の陽が、さらさらと、銀色のうろこのように、揺れていた。
「ステラさん」
「はい」
「もし、本気で、覚えたかったら、ぼく、剣の動き、ちょっとだけなら、お見せできます」
ステラの目が、ぱっと、上がった。
「ぜんぜん、強くは、ない動きです。ぼくが、虚弱な身体で、ぎりぎり、生き残るために、削って、削って、最後に、残ったやつだけ、です」
「……」
「だから、強く打ち込むためじゃなくて、相手を、自分から、ちょっと、ずらすため、の動き、です」
ステラは、少し、目を細めた。
考えているような顔だった。
それから、はっきりと、頷いた。
「……はい。覚えたいです」
「うん。じゃあ、リファーラに着いて、ちょっと落ち着いたら、宿の裏とかで、ちょっとずつ、やりましょう」
「はい」
「でも、無理は、しないでください。ステラさん、魔法のほうが、本当に、すごい才能だと、ぼくは、思ってます」
「……はい」
ステラは、なんだか、すこし、はにかんだような顔で、頷いた。
それから、川の水で、自分の手のひらを、もう一度、すうっ、と、洗い流した。
冷たい水が、彼女の白い手のひらの上を、伝って、川に、ぽたぽたと、戻っていった。
ふたりは、しばらく、川辺の石のうえに、並んで、座っていた。
風が、戻っていた。
午後の風だった。
枯れた葉ではなく、新しい葉の匂いを、ふわっと運んできた。
老人にもらった、油紙の包みを、カゲトが、そっと開いた。
なかには、しわだらけの、深い赤紫色の乾し葡萄が、両手にすこし足りないくらい、入っていた。
「分けましょう」
「はい」
ふたりは、それぞれ、ひと粒ずつ、口に入れた。
噛むと、舌のうえで、思っていたよりも、ずっと、甘い味が、ぱあっ、と、広がった。
「……糖って、ほんとに、効くんですね」
「ですね。なんか、ふっと、力、戻りました」
「東のジジイ、って、絶対、あれ、自分のことですよね」
「そうですね」
ふたりは、ふっ、と、目を合わせて、笑った。
午後の街道は、もう、ふたりを、待っているようだった。
リファーラまで、あと、二日。
ふたりは、もう一度、川辺に、ぺこっ、と、頭を下げてから、また、街道に、戻った。
カゲトの腕の、白い布の結び目が、歩くたびに、ふわふわと、揺れた。
そのたびに、ステラの目線が、ちょっと、その結び目の上を、撫でるように、通った。
ふたりは、それぞれの胸の奥のほうに、
ひとつ、
きょうの昼の、ちいさな決意のようなものを、
ぽつ、と、
しまっていた。
それは、銀色の星のかたちでは、なかった。
もうすこし、固い、
剣の鋼のかたちに、近かった。




