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第12話 ファールスを発つ朝


出立の朝は、薄曇りだった。


雨が降るほどではない、ただ、空のいちばん上に、白い綿のような雲が、ぼんやりと流れている朝だった。

肌寒さは、もう、ほとんどなかった。春が、ぐっと進んでいる季節だった。


ふたりは、北門の少し手前で、足を止めた。

そこに、マリエルが、立っていた。


「ぎりぎりに来たわ。間に合った」


ぱさり、と一通の封筒を、差し出してきた。

リファーラのギルド宛の、紹介状だった。

封蝋には、ファールス・ギルドの紋章が、押されていた。


「これを、あっちのギルドの、フィン・グレイっていうおじさんに渡して。私の名前を出せば、わかるから」


「フィン・グレイさん」


「うん。すこし不愛想だけど、人は良いの」


ステラは、紹介状を、両手で、宝物のように受け取った。

胸のあたりに、ぎゅっ、と、押し当てた。


「マリエルさん」


「はい」


「あの、ありがとうございました」


「うん」


「私、最初、ぜんぜん自信がなくて、ギルドに来るのも、すごく、こわくて」


「うん」


「マリエルさんが、最初に、こっちにいらっしゃい、って言ってくれたから、ここまで、来られました」


マリエルは、ステラの頬に、軽く、自分の指の背を当てた。

ぬくい、というほどでもない、ほんの一瞬の、軽い接触だった。


「私はね、新人の顔を、覚えるのが仕事なの」


「はい」


「でも、覚えた顔の、外に出ていく後ろ姿を、ちゃんと見送るのも、仕事なの」


「……」


「だから、行きなさい」


彼女は、すこし、笑った。

それから、カゲトのほうにも、目を向けた。


「カゲトくん」


「はい」


「あなた、剣の腕、これからの街では、もうすこし、見せていいかもしれない」


「……は、はい」


「隠してても、たぶん、もう隠しきれないわ。リファーラのギルドの人たちは、見る目がある人が、多いから」


カゲトは、ぼんやりと頷いた。

彼自身は、自分の剣が「隠せる」ものだとも「見せる」ものだとも、ふだん考えたことがなかった。

ただ、マリエルの言葉は、なぜだか、後ろから優しく背中を押すように、彼の身体に響いた。


「行ってきます」


彼は、そう言った。


「行ってらっしゃい」


マリエルは、いつもの、明るい受付の声で、そう答えた。



北門を出て、しばらく歩いてから、ふたりは、振り返った。


ファールスの城壁は、いつもと同じ色をしていた。

煙突から、いくつも、朝の煙が上がっていた。

市場の喧騒は、ここまでは届かない。


けれど、その小ささのなかに、ふたりが過ごしてきた日々の、ぜんぶが、たしかに、収まっていた。


見習いの札をもらった夜の、宿の天井。

薬草採取の朝の、若葉の匂い。

畑のまんなかで笑い転げた、午後の陽の傾き。

迷子の女の子の、靴ひもをむすんだステラの、しゃがんだ背中。

ゴブリン退治の岩場の、夕方の風。

訓練所の梁にぱあんと跳ね返った、木剣の音。

ナイトレース草の、銀色の葉脈。


それらが全部、いま、振り返ったファールスの輪郭のなかに、入っていた。


「カゲトさん」


「はい」


「私、ここに、また、戻ってきますよね」


「……戻ってきます」


「マリエルさんに、もっと立派になりました、って、言いに、来ますよね」


「来ます。ぜったい、来ます」


ステラは、そっと、片手で、目元を拭った。

それは、涙、というほどではなかった。

ただ、湿った風が、ちょうど、目尻に当たってしまった、というふうに、彼女は装った。


カゲトは、それに気づいたが、何も言わなかった。

言わないで、ふっ、と、前を向いた。


街道は、まっすぐ、北東に伸びていた。


薄曇りの空のしたで、その先は、まだ、よく見えない。

けれど、見えないからこそ、足は、すっと前に、出ていった。


「次の街、どんな匂いがするでしょう」


歩きはじめて、しばらくしたところで、ステラが、そう言った。

もう、目元は乾いていた。


「街によって、匂いは、ちがうものなんですか」


「祖母が、言ってました。海に近い街は、潮の匂い。山の街は、薪の匂い。交易の街は、香辛料と、外の国の布の匂い」


「……それ、楽しみですね」


「はい」


ふたりの足音は、街道の土を、たんたんと、軽く叩いていた。


新しい風が、ふたりの前から、吹いてきていた。

それは、まだ、知らない街の風だった。

けれども、知らない、という事実が、いま、ふたりの背中を、すこし、軽くしていた。


ファールスは、もう、振り返らなくても、心のなかで、ちゃんと、形を保っていた。


ふたりは、

歩いた。

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