第10話 森の奥
北門を出る道は、ふたりにとって、もう何度も歩いた道だった。
それでも、その朝の道は、これまでとはちがって見えた。
風は変わらない。鳥の声も変わらない。だが、ふたりの胸の内側には、これまでにはなかった、薄い緊張の膜が一枚張られていた。
「カゲトさん」
「はい」
「もし、何か起きたら……」
「逃げます。沢の手前で、ぱっと諦めて、戻ります」
「はい」
ステラは、自分の言いたかったことを、先に言われたように、ふっと笑った。
彼女の背中には、いつもの杖と、そして、新しい細身の剣が、布で軽く括り付けられていた。
剣は、抜くとは思っていない。
それでも、背に重みがあるというだけで、ふしぎと、ふたりの足取りは、しっかりしていた。
森に入って、最初の一刻は、いつもの薬草採取と、何も変わらなかった。
湿った苔の匂い、若葉、遠くの水の音。
鳥が、ぱらぱらと鳴いていて、リスが何度か枝を渡った。
第一沢を越え、第二沢に向かう道は、緩やかな下りだった。
そこを歩きながら、ふたりは、少しずつ、声を低くしていった。
意識して、というよりも、森のほうが、それを促してくる気がした。
「鳥、まだ鳴いてますね」
「うん。いま、ちょうど、左の高いところで」
「あ、聞こえます」
ふたりは、言葉を交わすたびに、互いの存在を、互いの感覚で、ひとつ確かめ合っているようだった。
第二沢の手前で、最初のナイトレース草が、見つかった。
細長く、葉のふちにわずかに鋸刃のような切れ込みがある草で、薄暗い苔のうえに、ぽつ、ぽつ、と顔を出していた。
夜には光るというが、昼に見るかぎりでは、ふつうの草とほとんど見分けがつかない。
「これ、ですよね?」
ステラは、屈み込んで、葉を裏返した。
葉脈が、わずかに銀色に走っていた。
「うん、これです。間違いない」
「やった……」
ふたりは、はじめの三束を、ここで採った。
それから、第二沢を越え、しばらく進んだあたりで、また少し見つけた。
そして、さらに三束。
合わせて六束、というところで、ふたりは、地図を確かめた。
あと、四束。
「沢、まだですね」
「はい。第三沢の、もう少し手前」
あと数百歩、進めば、第三沢が見える。
そこの手前まで行けば、ナイトレース草の群生地に当たるはずだった。
ステラは、首を傾げて、空を見上げた。
「鳥の声、すこし、減りました?」
カゲトも、聴き耳を立てた。
確かに、左右の鳥の声が、薄くなっていた。
完全に消えたわけではない。だが、さっきまで、ふたりの会話のすき間を埋めていたあの声が、あきらかに、ひとつ二つ、消えている。
「……戻りますか」
カゲトは、低く言った。
「あと、四束、足りないですけど」
「足りないままでいいです。マリエルさんの言いつけを守ります」
ステラは、こくっと頷いた。
そして、ふたりは静かに、来た道を戻り始めた。
戻り始めて、いくらも経たないうちだった。
右手の藪のなかで、ぱきっ、と、低い枝が折れる音がした。
鳥が、いっせいに、鳴きやんだ。
そして、左手の藪から、灰色の影が、
二つ、
ふっ、
と、現れた。
狼だ、とカゲトはすぐに分かった。
ふつうの狼ではない。
肩の高さが、犬よりひと回り大きい。毛並みが、灰よりも黒に近い。眼の色が、黄色ではなく、薄く赤を帯びている。
野犬とは、まったくちがう種類の獣だった。
「ステラさん、後ろに」
カゲトは、声を低く保ったまま、そう言った。
ステラは、すっ、と一歩、彼の背後に下がった。
杖は、もう、両手で構えられていた。
右手の藪からも、もう一匹。
三、と、カゲトは数えた。
そして、
前方の少し先――、道の真ん中に、もう一匹、立っていた。
四。
群れの統制が、できている群れだ。
前後を塞いで、横から二匹、追い詰める形。
カゲトは、自分の口の奥が、すこし乾くのを感じた。
けれど、不思議と、頭は冷えていた。
「ステラさん」
「はい」
「詠唱、お願いします。長くてもいいです。一発、強いの、ください」
「あ……はい」
「途中で、ぜったい、止めないでください。途中で何が来ても、止めないで。守るのは、僕の役目なので」
「……はい」
ステラの声は、震えていた。
それでも、はっきりと、頷いた。
「いきます」
カゲトは剣を抜いた。
細い、彼自身の身体に合わせた剣は、薄く、しなやかな弧を描くように、彼の手のなかに収まった。
前の一匹が、低く唸った。
それを合図に、左の藪から、二匹が同時に飛び出してきた。
速かった。
ゴブリンとは、まったくちがう速さだった。
けれど、カゲトの目には、それでも、ぎりぎり、ゆっくり映っていた。
彼は、半歩だけ、横に身体をずらした。
先頭の一匹の牙が、彼の肩のすぐ横を、空を切った。
そのとき、彼の剣の腹は、もう、相手の肩口に、すべるように当たっていた。
斬らない。叩かない。ただ、相手の重心を、ふっ、と押す。
狼は、自分の勢いで、横に泳いだ。
前足が、地面ではなく、自分の身体の下に入って、踏んばりが効かない。
「銀星よ――、わたしの、前に」
後ろで、ステラの声が始まっていた。
詠唱は、彼女がふだんよりも、ずっと低く、ずっと安定していた。
二匹目の狼は、すでに、横から飛んできていた。
カゲトは、踏みかえる足で、最短の歩幅で位置を変えた。
二匹目の牙は、彼の影をかすめただけで通り過ぎた。
そして、剣の腹が、相手の喉のあたりを、ぽん、と軽く撫でた。
斬りはしない。
ただ、その「点」に剣が当たった瞬間、相手は、自分の歩幅で、自分の重さに、躓いた。
「夜の――、糸を、編め」
ステラの詠唱が、二行目に進んだ。
前の一匹は、まだ動いていなかった。
けれど、左後方に、もう一匹いる。
そしてもう一匹は、
あ、
とカゲトが思ったときには、
ステラの正面、藪の影から、もう、跳び出していた。
詠唱中の、無防備なステラに、まっすぐ向かっていた。
「――!」
声を出す時間はなかった。
カゲトの足が、自分でも信じられない速さで、地を蹴った。
走った、というより、ステラの正面に、影だけを置いてきたように、彼は移動した。
彼の剣は、すでに、その狼の鼻先を、横から薙いでいた。
斬りはしない。
薙いだ剣の腹で、狼の頭を、ふっと横に逸らす。
そして、その逸れた首の根元に、彼の左手の柄頭が、
がつん、
と、深く打ち込まれた。
狼は、空中で身体を捻ったまま、横に転がって倒れた。
ステラの詠唱は、止まっていなかった。
彼女の口は、まだ、震えながら、最後の音節を、紡いでいた。
「――銀星、降れ」
ぱっ、と、
彼女の杖の先で、白く小さな星が、いくつも、ばらばらに咲いた。
それは、夜の砂のような細かい光の粒だった。
風に乗るかのように、星の群れは、前にいた一匹と、左の二匹のあいだに、
降りそそいだ。
光は、皮膚に触れた瞬間、薄く凍った。
毛が、ぱきっ、と固くなる音が、確かに、聞こえた。
前にいた一匹は、ぐっ、と低く唸ったまま、片足を引きずるように、後ずさった。
左の二匹も、同じだった。
完全に動けなくなった、というほどではない。
けれど、彼らの足は、雪の上を歩くように、明らかに、にぶくなっていた。
そして、
もう、
群れは、攻めようとはしなかった。
リーダー格の一匹が、低く吠えた。
それは、攻撃の合図ではなかった。
撤退の、合図だった。
三匹は、足を引きずるように、藪の奥へ、後退していった。
倒れていた一匹も、ふらふらと立ち上がって、それに続いた。
あとには、
ふたりと、
風と、
やがて戻ってきた、鳥の声、が、
残った。




