初めての帰り道
帰り道の途中、薄橙色に染まる夕暮れの公園の前を通った。
まだこの時間が終わってほしくなくて――いや、まだ「完璧な彼氏」を演じ足りなくて、「ちょっと寄っていかない?」と声をかけた。
ほのかちゃんは迷うことなく小さく頷いてくれて、俺たちはベンチに横並びで腰を下ろした。秋の気配を孕んだ心地よい風が通り抜け、ほのかちゃんの綺麗な黒髪を優しくなびかせていく。手を離すタイミングが分からないまま、俺たちはそのまま指を絡め合わせていた。
ふと喉の渇きに気づき、「何か飲む?」と尋ねる。
「うーん……じゃあ、カフェオレがいいな」
そう言われたので、「買って来るよ!」と立ち上がり、すぐ横にある自動販売機へと向かった。
カフェオレなんて、なんだかちょっと大人っぽいな……。
そんなことを思いながら自分の分をどうするか悩み、結局ほのかちゃんと同じカフェオレのボタンを押した。
ホットにするかコールドにするかで一瞬迷ったけれど、いちいち「温かいのにする?」と聞きに戻るのも格好悪い気がして、一か八かでコールドを選んだ。
足早にベンチへ戻り、缶をほのかちゃんに手渡す。
「ありがとう!」
受け取りながら柔らかく微笑む彼女を見て、俺は心の中でそっと自分に問いかけた。
……ここまでは完璧だろ? 俺、ちゃんと『普通のカップル』として動けてるよな?
他愛もない会話を交わしながら、公園の古びた時計に目をやると、針はすでに17時半を過ぎていた。
彼女の家の門限が何時かは分からないけれど、無難に18時前には家に送り届けた方がいいはずだ。
「……そろそろ、帰ろうか」
そう口にした瞬間、胸の奥がぐっと締め付けられ、急激な寂しさがこみ上げてきた。
だがそれは、恋人と離れる寂しさというより、この「普通」の時間を終えて一人に戻らなければならない恐怖に似ていた。
ほのかちゃんは、「うん……」と静かにつぶやいた。そして、じっと俺の目を見つめてくる。
――あぁ、これか。
直感した。これが、よくドラマや漫画で見てきた「キスをする雰囲気」というやつだ。
運よく、夕暮れの公園には俺たちの他に誰もいない。周囲を囲む樹木が目隠しになっていて、通りからもここまでは見えないはず。
ここで彼女とキスをして手をつないで帰る――それこそが、絵に描いたように素晴らしい青春の物語だ。
俺は腹を括った。
無言のまま、ゆっくりと顔を近づけていく。俺の動きに合わせて、ほのかちゃんの長い睫毛がゆっくりと伏せられ、瞳が閉じられた。
音もなく距離が縮まり、触れそうなほど近くで彼女の温かい吐息が俺の肌にかかる。
あと数センチ。唇同士が触れ合う、ほんのコンマ数秒前。
――ガタッ、と頭の中で何かが決定的に壊れる音がした。
「――っ!!」
全身を駆け巡った強烈な拒絶反応に突き動かされ、俺は思わずほのかちゃんの両肩を強く掴み、力任せに引き剥がしてしまっていた。
気まずい沈黙のなか、戸惑ったように目を開けるほのかちゃん。その真っ直ぐな瞳が見つめてくるのが耐えられなくて、俺の口から、吐き捨てるような言葉があふれ出した。
「……っ……! ごめん……!!」
肩を掴んで突き放されたほのかちゃんは、何が起きたのか分からないといった風に、目を丸くして驚いた顔を見せた。
「ごめん……ほんとうに、ごめん……」
頭の中が真っ白になり、理由の説明もできないまま、俺はただ逃げるように謝罪の言葉を呟くことしかできなかった。
ほのかちゃんは、じっと俺の顔を見つめた後、ふっと微笑んだ。けれどその笑顔は、俺に気を遣って、無理やり作ったものだということが痛いほど伝わってきた。
「ううん、いいの。……じゃあ、帰ろうか」
努めて明るく振る舞うような声でそう言うと、彼女は俺より先にベンチを立ち上がった。
もう、その後は手を繋ぐこともなかった。
何を話しても会話は噛み合わず、気まずい沈黙だけが二人の間に流れる。
分岐点に差し掛かると、俺たちは短く手を振り合い、それぞれの家を目指して背を向けた。
遠くの空で響くカラスの鳴き声が、夕暮れの街にやけに冷たく、耳についた。
家に着き、玄関のドアを開けると、リビングから母さんが声をかけてきた。
「おかえり。ご飯、できてるわよ」
「……いい。食べたくない」
いつもの自分なら言わないような暗い声で、静かにそう答えた。母さんは異変を感じ取ったのか、心配そうにこちらを覗き込んでくる。
「具合でも悪いの? 熱でも測ったら――」
「うるさいな!! そんなんじゃないから……っ!!」
苛立ちのあまり、俺は母さんの言葉を途中で激しく遮り、強く言い返してしまった。驚いたように目を見開く母さんの顔を見る勇気すらなくて、俺はそのまま逃げるように自分の部屋へと駆け込み、ドアを強く閉めた。
自分の部屋に入り、夕闇を遮るようにカーテンを閉める。そのまま吸い寄せられるようにベッドへ倒れ込み、仰向けになった。
……目頭が熱い。熱いものが、目尻をつたって耳へとこぼれていく。
……キスぐらい、なんだよ。すればよかったじゃないか。ただ口と口が触れ合うだけだろ。
自分を責める思考が頭を巡る。
きっと、ほのかちゃんを酷く傷つけた。自分は拒否されたんだと、そう思ったに違いない。
けれど――悠真と手が触れ合った時のような、あの息もできないほどの激しい胸の鼓動を、俺はほのかちゃんと手を繋いだ時に一度だって感じなかった。
手を繋げた時、とても嬉しい気持ちになった。今思えばそれは、女の子と手をつなぐというスキンシップが出来たからではない、『自分が普通だ』と思うことが出来たからからだろう。
正直に言えば、キスだってしたいと思えなかったのだ。もしあのまま唇を重ねてしまったら、自分の中の何かが致命的に壊れてしまう――そんな予感がした。
……母さんにも、ひどい八つ当たりをしてしまった。
最悪な自己嫌悪に沈んでいると、不意に、お腹がぐぅ――っと大きな音を立てた。
……こんな時でも、お腹って空くんだな。
なんだか急に可笑しくなってきて、自虐的な笑いが込み上げてくる。
もう嫌だ。今日は、これ以上何も考えたくない。
俺はやっぱり、「普通」にはなれなかったんだ――。




