知らない日常
前回のあの惨劇の夜を無事にくぐり抜け、それからは何事もない穏やかな生活が数週間続いた。
1回目の人生も、2回目の人生も、俺たちの運命はあの夜で大きく歪むか、終わりを迎えていた。だからこそ、この先は俺たちにとって完全に「誰も知らない未知の領域」だった。
1回目の人生のとき、この時期はどうだっただろうか……と頭を巡らせてみても、まったく思い出せなかった。あの時はすでに花音が他の男と結婚したあとの話だったからか、あるいは別の時間軸を歩んでいたからなのか、今の会社で花音と同じ部署で働くこの平和な日々は、過去のどの記憶にも存在しない「初めての体験」だった。
毎朝、智哉の淹れてくれたコーヒーを飲んで「行ってきます」のキスをして家を出る。会社に着けば、企画開発部の同僚としてテキパキと仕事をこなす花音の姿がある。
廊下やすれ違いざまに目線が合っても、お互いにパートナーの指輪を光らせ、適度な緊張感と割り切ったビジネスライクな距離感を保ち続ける。
惨劇の破滅を回避できたという安堵。智哉との穏やかで温かい日常を守り抜いている充足感。
その一方で、ここから先は手探りで進むしかないという、得体の知れない緊張感。
(ここから先は、俺たちだけの新しい未来なんだ——)
未知の世界へ足を踏み入れているというかすかなワクワク感と、何が起こるか分からない暗闇を進むような不安感が入り乱れる日々を、俺は智哉の温もりを感じながら静かに噛み締めていた。
職場でほとんど話しかけてこない花音が、終業後、わざわざ俺のデスクのところへやってきた。
周りの社員たちがポツポツと帰り始め、静まり返りつつあるフロア。何の用事だろうと、俺の内心は決して穏やかではなかった。人目を避け、メッセージすら送らないと決めたはずの彼女が直々に来るなんて、何かトラブルでも起きたのか——。
花音はどこか落ち着かない素振りを見せると、俺のすぐ横にあるキャスター付きの椅子を引き寄せ、ちょこんと腰を下ろした。
「どうした? 何かあったのか……?」
不安を押し殺し、努めて穏やかに心配そうな声をかけると、花音は言いづらそうに、けれど恥ずかしそうに頬を染めて口を開いた。
「私ね……結婚することになったの……!!」
「え……っ!?」
思わず絶句する。『なんで……!?』と叫びそうになるのを、寸前でどうにか喉の奥へ押し留めた。当たり前だ、失礼すぎる。彼女には優真という婚約者がいて、結婚を目指して付き合っていたのだから。
だが……頭の中で思考が目まぐるしく駆け巡る。
1回目の人生の記憶と照らし合わせても、時期があまりにも早すぎるのだ。なぜこんなに早く? なんであの男と……?
動揺を隠せない俺の表情を見て、花音はどこか誇らしげに、照れくさそうに笑った。
「海斗にね……1回目の時に私、優真と結婚してたって聞いたでしょ? それを知って、優真も私と結婚する気がちゃんとあったんだって分かったから……ふふ、私から言っちゃったの!! そしたらね、彼もちゃんと考えてくれててさ。ただ言い出すタイミングを計ってただけだったみたいで……!!」
「そ……そうなんだ……。よかったね、おめでとう」
……俺はちゃんと、引きつらずに笑顔を作って言えただろうか。
俺が1回目の記憶を花音に伝えたことで、彼女の人生は大きく動いた。花音は勇気を出して一歩を踏み出し、大好きな男との幸せな未来を自分から掴み取ったのだ。花音にとって、これは間違いなく良い方向への変化だった。
惨劇は回避され、自分も智哉との日常を守り、花音も最良の幸せを手に入れた。
すべてが理想通りに、上手くいっているはずだった。
——なのに、なんだ。この胸を洗うような重苦しい痛みは。胃の奥から込み上げてくるような、吐き気すら覚える不快感は一体何なんだ。
「じゃ! また詳しいこと決まったら教えるね! おつかれ!!」
花音は軽やかな足取りでパタパタとヒールの音を鳴らし、満足そうに去っていく。遠ざかっていく彼女の背中を、俺はただ呆然と見送るしかなかった。
すべて上手くいっている。
俺たちは正しく選択し、間違いを犯さず、誰も死なない最高のハッピーエンドへ向かっているはずだ。
なのに……なぜ、俺の心はこんなにも乱れているんだ——?




