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合同コンペ

 そして、ついに智哉や高柳たちの会社との合同コンペの日がやってきた。

 前回のその日、廊下の影で緊張のあまり指先を酷く震わせていた花音の姿が鮮明に思い出される。

 あの時、俺は敢えて彼女に近づき、その唇に触れた。不安を紛らわせるためという口実の裏で、彼女の意識を俺へと向けさせたのだ。

 ……あれが、2回目のすべての歯車を狂わせる最初の一歩となったのは、言うまでもない。


 当然、花音もそれを鮮明に覚えていた。

 静まり返った廊下。出番を待つ花音の元へ足音を殺して近づくと、彼女は俺の気配に勘づいたように、持っていた手鏡を開いた。


 前回のあの時、落ちていたリップ。だが今回の彼女は、それを一筋の狂いもなく正確に手に持ち、落ち着いた手つきで手鏡を見つめながら唇を直していた。手先にも、指先にも、震える素振りすら一切見せない。

堂々とした凛とした佇まい。


 俺がこれ以上距離を詰められないよう、そして前回の再現など絶対に許さないと言わんばかりに、目に見えない強固なバリアを全身に張り巡らせているかのようだった。


「……準備、できてるみたいだな」 


 俺が花音にしか聞こえない声でそう呟くと、花音は手鏡をパチンと閉じ、俺を一切視界に入れないまま冷ややかな横顔で小さく頷いた。


「当然でしょ。二度目だもの」


 触れることすら許されない拒絶。俺たちは互いに惨劇を回避するため、こうして正しく距離を保っているのだ。


 なのに、俺に隙すら見せまいと必死に防壁を築く彼女の完璧な拒否が、どうしようもない切なさと、胸を焼くような歪んだ執着を静かに煽ってくる。


「——本日の件は、一度持ち帰って検討させてください」


 智哉の冷ややかな声が静まり返った会議室に響き、長く緊迫した合同コンペがようやく幕を閉じた。


 押し寄せる疲労感を押し殺しながら、俺は花音と共に会議室を後にし、ガラス張りの長い廊下を歩いていた。張り詰めた緊張から解放され、自分たちの部署へ戻ろうとした、その時だった。


 廊下の向こうから、智哉が一人で歩いてくるのが見えた。すれ違いざま、お互いの足が自然と緩む。


「お疲れ様でした」


 ビジネス用の無難な挨拶。花音が必死にビジネスライクな表情を保とうとしているのが分かったが、彼女の佇まいは、俺を絶対に寄せ付けまいと隙を消した『あのバリア』を頑なに張りつづけたままだった。

だが、智哉の冷たい視線は、一瞬だけ彼女の唇に留まった。


 2回目のあの日、俺が廊下で花音の唇に指を触れ、熱を持たせたあの場所を、まるで全て見透かしているかのように。

 智哉は花音から静かに視線を外すと、俺の目をまっすぐに見つめ、低く親密な声で言った。


「先に帰ってるね」


 その一言が持つ意味を悟り、隣に立つ花音の体が微かに強張ったのが伝わってきた。前回も聞いた同じ言葉。


 智哉が花音のすぐ真横をすれ違っていく。

 その瞬間、彼の身体からふわりと、あの退廃的で肉感的な香りが立ち上り、廊下の空気を支配した。


 智哉の身体から漂うのは、2回目と同じ、俺たちが開発し、数日前に夜のオフィスで花音と『あの日の記憶』を揺さぶられた、あの試作段階のメンズ香水の匂いだ。俺が家へ持ち帰り、智哉の首筋へと吹き付けたあの香り。


 智哉は分かっているんだ。確信犯として、花音とすれ違うこの瞬間のためだけに、俺が与えたあの香りを全身に纏ってここへ来たのだ。言葉には出さずとも、その香りが雄弁に物語っていた。


『海斗は俺のものだ』と無言で誇示し、俺たちの間に立ち塞がる強固なバリアすら一瞬で踏みにじるように、花音の存在を冷酷に揺さぶるために——。


  通り過ぎていく智哉の背中を見送りながら、俺と花音はただ、その妖しく甘い香りの檻の中に立ち尽くしていた。


 智哉の背中が廊下の曲がり角へ消えていくのを確かめると、花音は辺りに誰もいないことを素早く目線で確認した。

 そして、俺にしか聞こえないほどの低いトーンで、呆れたように吐き捨てた。


「なにあれ。あたしに敵意むき出し過ぎじゃない?」


 思わず、俺は「ふっ……」と軽く吹き出してしまった。


 1回目の記憶はなく、2回目のあの時は智哉の冷徹なプレッシャーと異常な雰囲気に怯えきり、可憐に身体を強張らせていた花音。


 だが今の彼女は、惨劇の記憶をすべて引き受けた上で、智哉と同じ『知っている者』として対等な舞台に立っている。だからこそ出てくる、あまりにも率直で容赦のない感想だった。


「は?  何笑ってんのよ。あれからどうなったか、覚えてないわけないでしょ?」


 眉をひそめて睨みつけてくる花音に、俺は肩をすくめた。


「ああ、そりゃそうだけど……。俺たちが一線越えなきゃ済む話だしな」


(1回目は一線を超えてから数ヶ月後だった。2回目は……まさにあの夜、当日だった。要するに、俺が花音を抱かなければ起こらなかった悲劇なんだ。実に単純な話じゃないか)


「まあね。前の記憶があるおかげで、そんなことには死んでもならないからね」


「死んでもって……縁起悪ぃな……」


 俺は困ったように苦笑した。悪気のない花音の言葉は相変わらず辛口だが、変に気を遣われるよりずっと心地よかった。


 『海斗に抱かれることは絶対ない』『死んでもならない』——そんな風に、容赦なく放たれる彼女からの拒絶を聞くたび、胸の奥がチクッと小さく痛むのは紛れもない事実だった。


(……だが、それでいい)


 俺は自分にそう強く言い聞かせた。

 男としてのプライドがほんの少し痛もうが、このチクッとする痛みが、俺たちをあの血まみれの結末から遠ざけてくれる安全装置なのだから。


「じゃ、あたし先に部署戻ってるから。海斗も早く戻りなよ」

「ああ、分かった」


 花音は一切の後ろ髪を引かれる様子もなく、ヒールを鳴らして颯爽と歩き去っていく。

 俺はその背中に残る香水の余韻と、左手の薬指に嵌まった指輪の冷たさを確かめるように、静かに息を吐き出した。



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