計画、実行
その後は、2回目の記憶がある者同士、驚くほどトントン拍子に事が進んだ。
前回同様、合同会議の日に高柳が「智哉が忘れた書類」を持ってきた。そして受付に行った高柳を花音が会議室まで案内し、完璧な手際で議事録を書き上げて、その存在感を総務部長や他の社員たちにまざまざと知らしめる。
お互いに全部分かっているからこそ、事前の綿密な打ち合わせすら必要なかった。
それをきっかけにして、花音は俺からの強い推薦という形で、俺のいる企画開発部へと正式に異動してきた。
異動初日。
前回は落ち着かずどこか挙動不審だった花音が、今回は堂々とした自信に満ちた態度でフロアに立っていたのは言うまでもない。
白々しく俺のデスクの前まで歩み寄ってくると、彼女は「よろしくお願いします」と綺麗に微笑みながら優雅に頭を下げた。
お互いに周囲の目を意識しながら挨拶を交わし、顔を上げた花音とバチッと視線が交差する。
その瞳は、かつての可憐で純粋な少女の頃とは程遠い。前回の記憶と経験を糧にし、自分の望むキャリアも道筋もすべて自らの手で手に入れたという、心を満たされた「女王」のような鋭く甘美な光を宿していた。
(……大した女優だな)
頼もしくもあり、どこか恐ろしくもあるその横顔を見つめながら、俺は「二度と過ちは犯さない」という盟約を胸の中で改めて強く噛み締めていた。
2人でプライベートで会ったのは、あの夜に花音の部屋へ足を踏み入れた一度きりだった。
携帯の連絡先こそ互いに知ってはいたが、それ以降、連絡を取り合うことは一切なかった。何か急ぎの確認事項や話があるときは、広大なオフィスの死角や、人目を盗めるわずかな隙間を見つけて言葉を交わすだけに留めた。
そうやって、二人の間でしっかりと線を引いたのだ。お互いのパートナーを最優先にし、疑われるようなリスクは一切冒さない。そのため、プライベートの連絡網やメッセージ、電話のやり取りは一切封印するという徹底ぶりだった。
――すべては、あの血塗られた惨劇を二度と繰り返さないため。
お互いの幸せな日常と、それぞれの愛する人を守るための、これは絶対的な防衛策だった。
その徹底した距離感のおかげか、あるいは花音自身に前回の経験と圧倒的な適性があったからか——彼女は2回目の人生というアドバンテージを存分に活かし、驚くほどのスピードでこの企画開発部の環境に馴染んでいった。
初日から見せていた女王のような余裕は伊達ではなく、持ち前の勘の良さと前回の記憶を総動員して、瞬く間に周囲からの信頼を勝ち取っていく。
オフィスの一角で、見事に仕事をこなし、同僚たちと軽妙なやり取りを交わす花音の姿を、俺は少し離れたデスクから静かに見つめていた。
(……これで、いいんだ)
仕事のパートナーとして完璧に機能しながらも、プライベートでは決して踏み込まない。この絶妙な距離感を保ち続けていれば、智哉の穏やかな笑顔も、俺たちの平穏も、きっと守り抜けるはずだ。
そう信じて疑わなかった。
俺は前回の人生と同じく、香水の試作にとりかかった。一度経験している工程ということもあり、作業は驚くほど順調に進んでいく。前回の世界では丸一ヶ月かかったプロセスが、わずか数日で形になっていく。
だが、そこに「やり切った」というような達成感は微塵も感じられなかった。ただ冷徹に、過去の再現をこなしているような感覚だった。
試行錯誤に集中しすぎていたせいだろう。ふと我に返ったときには、終業時間を大幅に過ぎていた。
慌ててデスクの上のスマホに手を伸ばし、画面を点灯させる。時刻はすでに20時過ぎ。智哉からの着信やメッセージの通知が何件か入っていることにも、今の今まで全く気づいていなかった。
(うわ、やってしまった……。怒ってるかな、それとも拗ねてるか……?)
脳裏に智哉の困り顔を浮かべながら、急いで謝罪と帰る旨の返信を打ち始めた——その時だった。
背後に、すっと人の気配を感じた。
「……っ!?」
反射的に首を動かして振り返ると、そこにはコンビニの透明なビニール袋を手に下げた花音が、静かに微笑んで立っていた。
「え? ずっと残って……?」
誰もいない暗がりが広がるフロアの中、俺は驚きを隠せないまま呟くように問いかけた。
「まさか……俺が終わるのを、ずっと待ってたのか……?」
「ふふ、まさか!」
花音は軽やかに笑い声を上げながら、持っていたビニール袋をカサッと揺らした。
「一回帰ったんだけどね。買い物で近くまで戻ってきたら、オフィスの窓の電気が点いてるのが遠くから見えてさ。……海斗が前回のとき、遅くまで残って香水作ってたの思い出しちゃったの。だから、ちょっと差し入れ買ってきてあげようかなって」
何でもないことのようにさらりと言ってのける花音。だが、人目を避けてメッセージすら送らないと決めたはずの俺たちの間に、静まり返った夜のオフィスという空間で、思いがけない「二人きりの時間」が落ちてきた瞬間だった。
花音がぐっと顔を近づけ、俺の手元の香水の匂いを嗅いだ。
『これを嗅ぐと、やっぱり……あの日のことを思い出してしまうのね……』
遠い目をしてそう呟いた。我に返り、パッと顔を上げた花音と視線がぶつかる。
「じゃ……! それだけだから……!」
花音は、俺の視線に気づいた瞬間、顔を真っ赤にして動揺しながら逃げ出していった。
また、一人で静寂につつみ込まれ、ふと考え込む。
この香水は前回も開発していた。だが、あの時の花音には1回目の記憶なんてなかったはずだ。
2回目の人生で……俺はこの香水を、いつ身につけていただろうか?
頭の中で記憶の糸を急速に手繰り寄せる。
香水を試作し、完成させ、智哉の会社との合同コンペが終わり……いや、そこまではまだ日常でこの香水をつけてはいなかった。
そうだ……あの日だ!
あの、合同プロジェクトの打ち上げの、飲み会の日——!
冷たい汗が背筋を伝う。初めて花音と一線を越え、互いの身体を貪り合うように重ねたあの日。
そして、そのまま智哉の狂気に引き裂かれ、2回目の命を落とした……あの運命の日。
ということは、さっき花音が試作品の香りを嗅いで思い出したのは……。
『あの日のことを思い出す』
恐らく彼女の脳裏に蘇ったのは、あの惨劇の恐怖だけではない。ホテルで互いの理性を吹き飛ばし、狂おしいほどに肌を重ね合わせた、あの情動の記憶だ。
「……っ」
お互いに「パートナーを優先する」「もう二度と線を越えない」と固く誓い合ったはずだった。連絡すら断ち、完璧な仕事仲間として振る舞ってきた。
なのに、俺が作り出したこの香水の香りが、冷め切っていたはずの二人の記憶を、そして閉じ込めていたはずの「あの日」の熱情を、否応なしに呼び覚ましてしまったのだ。
誰もいないオフィスで、残された香水の瓶を見つめながら、俺の心臓は痛いほど激しく脈打っていた。
智哉を守るために引いたはずの境界線が、足元から静かに、熱く溶け始めていくのではないかという恐怖を感じながら——。




