手繰り寄せられる運命
……だが、俺の決意は、あまりにも簡単に打ち砕かれることとなった。
その日の帰り、いつもより少し遅くなってしまったことに焦りながら、すっかり薄暗くなったロビーを早足で駆け抜けていた。
誰もいないロビーに、コツコツと俺の革靴の音だけが空虚に響き渡る。周りに人の気配がないことが、終業時間を大幅に過ぎている現実を否応なしに告げていた。
「海斗!!」
冷たく、刃のように突き刺さる鋭い声。
心臓が跳ね上がり、俺は反射的に足を止め、振り返った。
「花音……」
思わず、動揺を隠せない弱い声が漏れる。
その呼び方だけで、すべてを悟った。
前回の世界にあった甘えや躊躇いは微塵もない。彼女は前回の記憶を完全に保持しており、それを隠す気すらなく、真っ直ぐに俺と対峙しようとしている。
もう関わらない、智哉と生きていくと誓ったばかりだったのに。
暗がりの中にぽつりと佇む花音の姿が、俺の退路を断つ巨大で絶望的な壁のように見えた。
「話があるの」
重く、拒絶を許さない強い口調。こちらの都合や予定なんて、最初から尋ねる気すらないのだろう。
(断るか……? それとも『何のことだ』と前回の記憶なんて知らないフリをして突っぱねるか……!?)
俺が必死に逃げ道を模索し、激しく葛藤しているその数秒の隙を突くように、彼女はぐんと距離を詰めてきた。
見上げる——いや、俺を根底から射抜くような、凄まじい決意を秘めた冷たい眼差し。
「人に聞かれたくないでしょ? 他人の目がないところに行って話がしたいの」
「わ、わかった……」
拒否する選択肢すら与えてもらえなかった。これは彼女にとって決定事項なのだ。
その圧倒的な気迫に気圧され、俺の背筋を冷や汗がすーっと濡らしていくのを、ただただ感じていた。
「そこらへんに座って」
花音は素っ気なくそう言うと、そのままキッチンへと向かった。
彼女は迷う素振りを一切見せず、俺を自分のマンションへと連れてきた。1回目も2回目も、俺は花音の部屋に来たことなんて一度もなかった。
初めて踏み入る彼女のプライベート空間。女の子特有の甘く柔らかな匂いに全身が包まれ、背筋に鳥肌に近いゾクゾクとしたものが走る。
(この匂いを身に纏ったまま家に帰るわけにはいかないのに……。近づかない、と、智哉のために決めたばかりだったのに……)
言われた通り、ソファーの端に縮こまるように座って待っていると、花音が白い湯気を立てたマグカップを二つ運んできた。コトっと目の前に置かれるコーヒーの香り。
「話って……」
俺が切り出そうとした瞬間、横に座った花音が、がばっと勢いよく頭を下げてきた。
「ええ!? 何、いったい……!?」
「私を海斗の部署に異動させてほしいの!!」
「え……?」
頭を上げた花音は、俺の両腕を強い力で掴むと、潤んだ瞳で真っ直ぐに俺を見つめて懇願してきた。
「前回の人生で、海斗がしてくれたんでしょ!? だってどう考えても上手くいき過ぎだったもの! だからもう一度異動させてほしい! あんなに仕事にやり甲斐を感じたの、初めてだったの!!」
「ああ、……それなら……わかった。できると思うよ……」
拍子抜けしながらも、俺は頷いた。前回と同じように総務部へ手を回し、お膳立てをすれば上手くいくはずだ。
「ほんと!? ありがとう!!」
パッと顔を輝かせる彼女を見つめ、俺は少し首を傾げた。
「話ってそれ……?」
「うん!! それと……」
花音は一息つくと、俺の目を鋭く見据えて、言い放った。
「私、優真と別れる気はないから!!」
「……っ」
きっぱりとした否定に、思わず言葉が詰まる。
「海斗に抱かれることも、絶対ないから!!」
「あ……うん……。でも、そんなきっぱり言われるとなんか……」
(多少なりとも、男として傷つくな……)
心中で漏らした呟きが顔に出ていたのか、花音は眉をひそめた。
「え? だってそういうの、最初にちゃんと言った方がいいと思って……」
「ふっ……なんか、変なとこだけ真面目だな……」
思わず口元から乾いた笑いが漏れた。
「ええー!? 大切なことだから言ったのに!!」
「いや……普通は言わないだろ……てか言いづらいだろ、そんなストレートに……はは……まあ、お前らしいけど……。それに、ほら」
俺は自分の左手を持ち上げ、薬指を見せた。
2回目の人生では外していた、智哉とのペアリング。今回は一度も外すことなく、しっかりと指に嵌まっている。
「俺も、大切なやついるし」
俺の指輪を見つめ、花音の瞳が微かに揺れた。
「……あの人、だよね」
きっと彼女の脳裏にも、あの雨の路地裏で血まみれになって刃を振るっていた智哉の姿が蘇っているのだろう。
「ああ。俺たちが過ちを犯さなければ、あんなことにはならない」
「……うん」
静かに頷く花音。互いにすべてを記憶しているからこそ成り立つ、あまりにも歪で、けれどどこか決定的な協定。
智哉を二度と人殺しにしない。花音も自分も、大切なパートナーを裏切らない。
目の前でコーヒーの湯気が静かに揺れる中、俺たちは「二度と線を越えない」という固い絆を、悲劇の記憶とともに分かち合っていた。




