安らかなひとときと確信
今回、1回目や2回目の世界と明らかに違うことが一つだけあった。
それは——『これが最後だ』という強烈な直感だった。
理由なんて分からない。理屈で説明できる言葉も持っていない。だが、胸の奥を重く突き刺すような、逃れようのない確信めいたものが確かにあった。1回目や2回目のタイムリープでは一度も感じたことのない、冷たく切迫した気配。
だからこそ、今回はもう逃げられない。
失敗すれば、次は存在しない。この3回目の人生で、すべての狂気と悲劇を終わらせなければ、俺たちに「後」はないのだ。
だから俺は、智哉とのこの時間を何よりも大切にしようと心に決めていた。
◇
「え……嘘でしょ!? 海斗、これ……部屋についてるの!?」
客室の重厚なドアを開けた瞬間、バルコニーの向こうに広がる湯気と木枠の露天風呂を目にして、智哉が声を弾ませた。
「そうだよ。温泉行きたいって言ってたから、ゆっくりできるように露天風呂付きの部屋を予約しておいたんだ」
サプライズは大成功だった。智哉は目を丸くしたあと、子供のようにパッと顔を輝かせて部屋の中へと駆け込んでいく。
「すごーい!! 部屋からそのまま温泉に入れるなんて最高じゃん! ありがとう、海斗!」
跳ねるように喜ぶ智哉の姿に、胸の奥がじんわりと温かくなる。1回目でも2回目でも彼に与えてやれなかった、純粋で穏やかな幸せが、いま目の前で芽吹いている。
夕食は、部屋に運ばれてくる豪華な和会席だった。
旬の山菜の天ぷらに、美しいサシの入ったブランド牛のしゃぶしゃぶ。普段の忙しい日常では味わえない贅沢な料理を前に、智哉は地酒のグラスを傾けながら、終始楽しそうに美味い美味いと頬をゆるませていた。
「ねえ海斗、このお肉すごいやわらかいよ! ほら、食べてみて!」
「本当だ、美味しいな。智哉、お酒進みすぎてないか?」
「だって嬉しいんだもん。海斗とこうやって旅行来られたのがさ」
少し顔を赤くした智哉が、心底幸せそうに笑う。
パーテーション越しの殺伐としたオフィスも、血の臭いが漂う暗い路地裏も、ここには存在しない。ただ湯の香りと、お互いを思いやる穏やかな空気だけが満ちていた。
夕食を終え、二人でじっくりと部屋の露天風呂に浸かったあと、ふかふかの布団に横たわる。
窓の外からは、静かな夜の木々が風にそよぐ音だけが聞こえていた。ほてった身体を寄せ合い、智哉は俺の胸元にそっと頭を預けてくる。
「楽しかったな……。海斗、連れてきてくれて本当にありがとう」
「ううん、智哉が喜んでくれてよかったよ」
俺が彼の柔らかな髪を優しく撫でると、智哉は心地よさそうに目を細め、満足気な吐息を漏らした。そして、半分夢の中へと落ちかけている掠れた声で、ポツリと呟いた。
「……こんな日がさ……ずっと続くといいなあ……」
「……ああ、そうだな……」
規則正しい智哉の寝息が部屋に響き始める。
俺は彼の抱擁を解かないまま、暗い天井を見つめていた。
『これが最後』——。
胸の中で渦巻く予感が、静かに警鐘を鳴らし続ける。智哉が望むこの温かな日常を守り抜くこと。それが俺に課された最後の使命のはずだ。
俺は抱きしめる腕にほんの少し力を込め、智哉の安らかな寝顔を守るように、静かに目を閉じた。
旅行からの帰り道はあっという間だった。智哉は車の中で「また行こうね」と嬉しそうに何度も呟き、家に着いてからも満足そうに余韻に浸っていた。
そして、休みが明けた月曜日。
会社の自動ドアを潜り抜けた瞬間、俺は息を呑んだ。パーテーションが並び、パソコンの無機質なキーボードの音が響く企画開発部。
先週末、智哉と過ごしたあの温かい温泉街の記憶と比べると、智哉のいない職場は、まるで全く別の世界に迷い込んだかのように冷たく無機質に感じられた。
(これが、俺の現実だ……)
自席につき、デスクの上に置かれた書類やPCの画面を見つめながら、俺は胸の中で静かに、けれど固く自分の行く先を決意していた。
(もう、花音には関わらない)
今回の人生では、智哉と生きていく。智哉の手を絶対に離さない。彼を裏切らず、二人で穏やかな未来を歩むことだけを考えるんだ。
受付の様子が気にならないと言えば嘘になる。
だが、今回は俺から総務部へ手を回すような真似は一切しない。2回目の時のように、彼女を企画開発部へ引き抜くための裏工作も「お膳立て」も、何ひとつ手を出さない。
ただの「通りすがりの中途社員」として、彼女の視界から消える。
智哉を愛し、守り抜くことが、俺に遺された唯一の正しい道なのだから——。
そう心に誓い、俺は静かにキーボードへ手を伸ばした。




