見つめ直し
次の休日の昼下がり。リビングでは、テレビの画面で動画を楽しそうに眺めている智哉の後ろ姿があった。俺はその背中を視界の隅に収めながら、キッチンで静かに料理をつくっていた。
(こんなに穏やかで、温かい日常があるのに……なぜ、あんな悲劇になってしまったんだ……)
トントントン、とまな板を叩く規則的な音。野菜を刻みながら過去の残像に囚われていると、不意に手元が狂い、包丁の刃先が左手の指をざっくりと切り裂いた。
「いっ……た……」
第一関節のあたりから、朱色の血がタラ……ッと一滴、伝い落ちる。
たった一滴。指先がジクジクと脈打つように痛む。たったこれだけの傷なのに、こんなにも痛い。
なのに、あの時は——。
鮮血の記憶が、脳裏を容赦なく駆け巡る。
1回目、そして2回目の終わりの瞬間。鼻を突く生臭い血の臭い、視界を覆い尽くすほど真っ赤に飛び散った鮮血、白い雪が赤く染まっていったあの日、そして雨の路地裏で自分の首元を貫いたあの狂気の熱……。
「海斗!?」
俺が包丁を持ったまま呆然と立ち尽くしているのに気づいたのか、智哉が弾かれたようにこちらへ駆け寄ってきた。
「え!? 血が出てるじゃん!! ちょっと待ってて! カットバン持ってくる! あー……でも深そうだから大きめのやつがいいかな〜!?」
智哉は焦りながらバタバタとリビングへ走り去り、すぐに救急箱を抱えて戻ってきた。
半泣きのような顔をして、俺の左手を両手で包み込み、指先に必死で大きめのカットバンを巻きつけていく。
「痛かったでしょ……もう、何考えてたのさ……」
必死に俺の手当てをしてくれる智哉の頭を、俺はどこか他人事のような、遠い目で見つめていた。
この優しさ。この温もり。智哉は俺をこんなにも愛してくれている。彼を二度と狂気に落とし込んではいけない。俺が智哉の愛に応え、花音との過ちを繰り返さなければ、智哉の手が血で染まることもないのだ。
俺はゆっくりと口を開いた。
「なあ、智哉」
「なに?」
俺の顔も見ず、手元の手当てに全神経を集中させたまま智哉が答える。
「旅行……に行かないか?」
「え!? 旅行!?」
智哉の手が止まり、ハッと顔を上げて俺と目を合わせた。その丸く見開かれた驚いた顔すら、胸が締め付けられるほど愛おしく感じる。
2回目の世界で、智哉が何気なく言っていた言葉が脳裏に浮かんでいた。あの時、テレビで旅番組を観ながら『旅行行きたいな〜。温泉とかでのんびりしたい』と、嬉しそうに呟いていた姿を。
「温泉とかどう?」
「ええ!! いいの!? 行きたい!! えーー嬉しい!!」
パッと花が咲いたような智哉の笑顔。俺の手を握りしめたまま無邪気に喜ぶ彼の姿を見つめながら、俺は心の中で固く固く誓っていた。
(そうだ……智哉とこうして向き合っていればいいんだ。花音とはもう二度と一線を越えない。俺が智哉だけを愛していれば、全員が助かるんだ——)
指先の小さな傷の疼きを感じながら、俺は智哉の笑顔に応えるように、ゆっくりと微笑みを返した。
1回目、そして2回目の人生で、俺の裏切りと執着が最終的に智哉をあの凄惨な結末へと追い詰めてしまった。彼の手を血で汚させ、その心を狂気で壊してしまったことへの、どうしようもない罪滅ぼしの感情があったのは確かだ。
だが、それだけじゃない。
無邪気に旅行の計画を楽しんでいる智哉の笑顔を見つめながら、俺は心からそう思っていた。
一度失ってしまった智哉との穏やかで温かな時間。あの惨劇の夜、俺の手から零れ落ちてしまったこの平凡な日常を、今度こそ傷つけずに愛おしみたい。彼の純粋な好意に、今度こそ誠実に向き合いたいという強い思いがあった。
……そして。
(智哉との時間に没頭していれば……花音のことを考えずに済むかもしれない)
そんな浅はかで自分勝手な逃避の計算が、俺の心の底に微かに混ざっていたことも否定はできなかった。
智哉に意識を向け、彼の恋人としての役割を完璧に全うしていれば、あの雨の夜の感触も、花音の肌の熱も、あの妖しく微笑んだ記憶の眼差しも、すべて頭の中から追いやることができるはずだ。
「どこに行こうか? 智哉が前に行きたがってた温泉街とか、調べてみようか」
カットバンの巻かれた指先を智哉に優しく握り返されながら、俺は自分に言い聞かせるように微笑んだ。
この温もりの中に引きこもっていればいい。花音には近づかず、ただの「同僚」として遠くで見守るだけに止めればいい。
智哉を愛し、智哉と笑い合うことで、自分の中に棲みつくあの凶暴なバケモノを封じ込められるのだと、俺は必死に自分を欺こうとしていた。




