第三章 始まった新しい時間
激しく脈打つ鼓動を胸の奥に押し込めながら、俺はなんとかその日の業務と挨拶を乗り切った。
帰り道、夕闇が溶け込む街並みを歩きながら、混乱する頭を必死に回転させる。
どういうことだ……? 花音に、記憶が残っている……? 一回目の死を経てタイムリープした時、花音には前の世界の記憶なんて一切なかった。
なぜだ? なぜ今回は記憶がある?
——条件の違いか?
一回目の時は、花音が智哉に俺より先に殺された。だから俺が時間を巻き戻した時、彼女には記憶が引き継がれなかった……?
だが二回目——さっきの死では、俺が彼女を庇って先に刃に倒れた。その後はどうなったかわからない。
俺の死が引き金となり、彼女が生きている状態で世界が巻き戻ったから、彼女にも記憶が残ったというのか……!?
そして、戻ってきたこの日付。
金曜日、俺が転職してきたまさに「初日」だ。カレンダーの日付を見れば、今回も花音がまだあの男、優真と結婚する前の時間軸に戻っている。
「待てよ……じゃあ逆に、今できることは何だ?」
歩みを止め、不気味に光を反射する床を見つめる。
二回目の世界で、花音は自分の意志で受付から企画部への異動を希望し、劣等感に苛まれることなく生き生きと働いていた。もし俺が彼女に働きかけ……二回目と同じように背中を押して動けば、また彼女が自分らしく輝ける未来を作れるのではないか?
いや、だが……今回、本当に花音に記憶が残っているのだとすれば。あいつが前回の記憶を持ったままなら、二回目とまったく同じ軌跡を辿るわけがない。
智哉の狂気、路地裏の凄惨な血の海、そして俺の死。あの地獄のような結末——悲劇しか生まない最悪の結末なんて、俺はもちろん、花音だって絶対に望むはずがない。
記憶を持つ花音と、すべての惨劇を知る俺。同じ記憶を共有した二人が、この「やり直しの世界」に揃ってしまった。
(……花音、お前は一体何を考えている……?)
智哉という存在の影が背後に付きまとう恐怖と、記憶を持つ彼女と対峙しなければならない甘美で恐ろしい緊張感が、俺の胸を徐々に蝕んでいくようだった。
「あ、おかえり〜。遅かったね。ごはんそこに準備してるよ〜」
「……ありがとう」
「ん? どうした? 疲れた?」
「ああ、ちょっと疲れたかな……。先に風呂入ってくるよ」
「わかった〜ゆっくりしてきなよ」
いつも通りの柔らかい笑顔で俺を迎えてくれる智哉。その温かな声と気遣いに、胸の奥がぎゅっと締め付けられるように痛む。
路地裏の暗闇の中、血走った瞳で包丁を握りしめていたあの狂気の姿。それが嘘だったかのように、目の前の智哉はどこまでも穏やかで、ただ純粋に俺を愛してくれている「パートナー」そのものだった。
(智哉はまだ……何も知らないんだ)
俺が花音と肌を重ねたことも、俺の手で彼女を自分の色に染め上げたことも、そしてこの手で命を絶って時を巻き戻したことも。
脱衣所に駆け込み、鍵をかけてドアに背を預ける。蛇口をひねると、勢いよく吹き出す温水がバスタブを叩き、湯気が狭い空間に満ちていった。
鏡に映る自分を見つめる。首筋にも、胸元にも、あの刃で切り裂かれた傷跡も血の痕も何一つ残っていない。
――今はまだ、何も起こっていない。
智哉の手は血塗られていないし、彼を狂気に追い詰めるような裏切りも、まだ俺は犯していない。
すべてが白紙に戻ったんだ。
(間に合う……今なら、まだすべてが間に合う)
花音の記憶が戻っているとしても、智哉の狂気を未然に防ぎ、全員が壊れずに済む道を模索することはできる。俺が踏み外さなければ、智哉を人殺しにせずに済む。そして、花音を悲劇に巻き込まずに済む。
なんでもできるんだ。このやり直しの世界なら、俺の選択次第でどんな未来だって作れるはずなんだ——。
シャワーのお湯を頭からかぶりながら、俺は固く目をつむり、今度こそ誰も傷つけない「完璧な筋書き」を組み上げるべく、必死に思考を走らせていた。




