止められない瞬間
「海斗、くん……っ」
ドアが閉まる音と同時に、俺は欲望を抑えきれず花音の華奢な身体を壁際へと押し付けた。
優しい婚約者の存在も、彼女が懸命に保ってきたプライドも、すべてを雨の音の中へかき消すように、会議の日に俺の手で色付けたあの唇を、激しく、貪るように塞いだ。
ブラウスのボタンを乱暴に外していく。熱い愛撫に身を委ねながらも、彼女の瞳の奥に冷たい不安の影が差し込んでいるのが分かった。
『男しか愛せない』『男のパートナーがいる』——世間に見せかけてきたその欺瞞が、彼女のブレーキを引こうとしている。
だが、俺はもう彼女を逃がさなかった。ベッドに押し倒し、上品なスカートをたくし上げる。間接照明の薄明かりが、彼女の白い肌を艶めかしく照らし出した。
視線が、彼女の開かれたお腹のあたりで止まる。おへその右横にある、小さくて薄いほくろ。1回目の人生で、俺だけが知っていたあの愛しい標識。そこに吸い付くように、そっと唇を寄せた。
「……やっぱりあった……」
抑えきれずに、吐息のような独り言が漏れた。
その瞬間、彼女の背筋がゾワッと跳ね上がるのが伝わってきた。
「海斗、く……ん、なにか、いま——」
問い詰めようとする彼女の言葉を、俺は下腹部を突き上げるような激しく切ない情熱で強強引に掻き消した。
明日、世界の終わりが訪れると知っているかのように。必死に、貪欲に、俺は彼女の身体を貪り続けた。快楽のためなどではない。また彼女を失ってしまうという惨劇の恐怖から逃れるために。
「花音……、花音……っ」
口にする呼び捨ての名前。掠れた声を耳元で何度も繰り返しながら、俺は彼女を強く、強く抱きしめた。彼女もまた智哉から奪い返すように背中に爪を立て、俺を強く求め返してくる。
ただ、二人の荒い息遣いと、窓を叩く激しい雨音だけが夜を支配していた。
——やがて、嵐のあとのような静寂が訪れる。
カーテンの隙間からネオンの光が差し込むベッドの中で、俺は花音を腕に抱きながら、うつろに部屋の闇を見つめていた。
彼女が冷たくなったシーツの中で正気を取り戻していくのが分かる。押し寄せる過ちの重みと罪悪感。俺は抱きしめる腕に一層強く力を込めた。
「海斗……?」
覗き込んでくる彼女の顔を見ることができない。目元が熱く潤んでいるのが自分でも分かった。昼間の冷徹でスマートな「一ノ瀬 海斗」の仮面は、跡形もなく砕け散っていた。そこにいるのは、過去の恐怖に怯える惨めな男だけだ。
俺は震える手で、ゆっくりと彼女の左手を握りしめた。
「婚約者、いるんだろ?」
静まり返った暗闇の中に落としたその言葉に、抱きしめた彼女の身体が固直するのが伝わってきた。
「……え? なんで……っ、なんで優真のこと……婚約者がいるって、知ってるの……!?」
彼女の瞳に走る激しい動揺と恐怖。
そうだろう。今の部署で花音は、プライベートの匂いなど徹底的に排除していた。他部署で、これまで接点すらなかったはずの俺がその存在を知っているはずがない。
「知ってるんだ。……全部、知ってる」
掠れた声を絞り出し、ゆっくりと視線を合わせる。熱く湿った指先をそっと彼女の頬に添える。
「俺たちが出会ったのは、これが初めてじゃないんだ、花音」
「何を……言ってるの?」
「1回目の人生で、俺とお前は、もう出会ってたんだよ。……お前が、あの優しい旦那と結婚した、その後に」
俺の瞳の奥で、前回の世界を赤く染め上げたあの果てしない絶望と殺意の記憶が、濁流となって激しく揺らめいていた。
「あの時の俺たちは、どうしようもなく惹かれ合って、一線を越えてしまった。お前はいつも、泣きじゃくりながら俺の腕の中で言ってたよ。『もっと早く出会いたかった』『結婚する前なら、よかったのに』って」
脳裏に蘇る、前回の人生の切なく狂おしい光景。胸を絞めつけられるような熱い痛みが込み上げる。
「同じ誕生日だって言ったのも、嘘だ」
歪んだ笑みを浮かべる俺の目から、耐えかねた涙が次々と溢れ落ちた。
「お前が俺の誕生月が自分と同じだと知って、『もし同じ日だったら、運命だったのにね』って、愛おしそうに笑ったから。だから俺は、お前を喜ばせたくて、運命だと思わせたくて、『同じ日だよ』って嘘をついたんだ」
「そんな……じゃあ、あの時の言葉は……」
「1回目の人生は……悲惨な結末を迎えた。お前を深く深く傷つける、最悪の結末だった」
惨劇の光景が頭を過る。言葉にすることすら恐ろしい、あの血塗られた過去。
「だから俺は、人生をやり直したんだ。タイムリープして、今度はお前に近づかないって心に決めていた。お前があの男と何事もなく結婚して、安定した幸せな未来を歩めるように……。お前から徹底的に逃げるつもりだった」
濡れた指先で、数日前に俺自身の手で色を乗せた、花音の愛しい唇にそっと触れる。
「周りの女には、指一本触れるだけで吐き気がする。俺は本当にお前以外の女じゃダメなんだ。でも、お前に対してだけは……違ってたんだ」
激しい感情に声が猛烈に震えた。
「なのに……会社で再会して、お前の左手にまだ指輪がないのを見た瞬間、全部どうでもよくなった。お前を他の男に渡したくない、また抱きしめたいって……。自分の醜い独占欲を、抑えきれなかったんだ。ごめん、ごめんな、花音……」
俺は、溢れ出す涙を止められず、これ以上涙を見せなくていいよう、花音を抱きしめた。
背中にまわされた彼女の手から伝わる微かな温もり。俺の歪んだ狂愛と、時を越えた孤立無援の矛盾を知った彼女が、恐怖を越えて俺を受け入れてくれたことを感じ、胸が熱く震えた。
——ホテルをあとにした俺たちの間に、言葉はなかった。
深夜2時。冷え切った雨上がりの路地裏には、街灯の鈍いオレンジ色の光だけがどんよりと澱んでいる。花音の手を握り締めながら、濡れたアスファルトを踏みしめて歩く。
これからどうすればいいのか、何一つ答えは出ない。ただ、繋いだ指先から伝わる彼女の体温だけが俺たちの唯一の救いだった。
コツ、コツ、コツ……。
静まり返った路地の奥から、規則正しく冷徹な革靴の足音が近づいてくる。
ハッとして花音を自身の背中へ庇った瞬間、街灯の影から一人の男が姿を現した。




