背徳の夜
「——本日の件は、一度持ち帰って検討させてください」
智哉の冷ややかな声が静まり返った会議室に響き、長く緊迫した合同コンペがようやく幕を閉じた。
押し寄せる疲労感を押し殺しながら、俺は花音や須藤さんと共に会議室を後にし、ガラス張りの長い廊下を歩いていた。張り詰めた緊張から解放され、自分たちの部署へ戻ろうとした、その時だった。
廊下の向こうから、智哉が一人で歩いてくるのが見えた。すれ違いざま、お互いの足が自然と緩む。
「お疲れ様でした」
ビジネス用の無難な挨拶を交わす。花音が必死に完璧な笑顔を作ろうとしているのが分かったが、智哉の冷たい視線は、一瞬だけ彼女の唇に留まった。俺が先ほど自分の指で紅を差し、熱を持たせたあの唇に。
智哉は花音から静かに視線を外すと、俺の目をまっすぐに見つめ、低く親密な声で言った。
「先に帰ってるね」
その一言が持つ意味を悟り、隣に立つ花音の体が微かに強張ったのが伝わってきた。帰る……俺たちの“家”へ。二人だけのあの部屋へ。
智哉が俺たちのすぐ真横をすれ違っていく。
その瞬間、彼の身体からふわりと、あの退廃的で肉感的な香りが立ち上り、廊下の空気を包み込んだ。
(……っ!?)
智哉の身体から漂うのは、今期俺たちの部署で開発している、まだ世の中に出回っていないはずの「試作段階のメンズ香水」の匂いだった。
数日前、俺が家へ持ち帰り、感想を聞くために自らの手で智哉の首筋へと吹き付けたあの香り。
智哉は確信犯だ。花音とすれ違うこの瞬間のためだけに、俺が家で与えたあの香りを纏ってここへ来たのだ。
『海斗は俺のものだ』と無言で誇示し、彼女の存在を揺さぶるために。
花音の顔が見えなくても、彼女がどんな顔をしているか手に取るように分かった。
なぜ智哉がその香りを纏っているのか。答えに行き着いた瞬間、彼女の脳裏にどんな映像が浮かんでいるのだろう。
花音を「守る」ために引き上げたはずのこの場所で、智哉の静かな執着と、俺の歪んだ欺瞞が、残酷な冷たさとなって彼女の心を激しく削り取っていた。
花音の歓迎会と合同会議のお疲れ会を兼ねた宴の席。店内に響き渡る賑やかな乾杯の音と、社員たちの弾んだ笑い声に包まれながら、俺は手元のグラスを煽るように何度も口へ運んでいた。
すぐ隣に座る花音を見やると、彼女はチューハイをまるで苦い薬でも飲むかのように、少しずつ何度も喉へと流し込んでいる。
数日前、あの廊下で智哉が放った「先に帰ってるね」という言葉、そして智哉の首筋から漂っていたあの試作香水の匂い。それが彼女の心を深く削り、脳裏にこびりついて離れないのではないかとあれから不安になっていた。
俺自身の飲酒ペースも自然と早くなる。店内の熱気とアルコールのせいで、顔がわずかに火照っていくのを感じていた。
「海斗君、お疲れ」
グラスをカチンと軽く打ち合わせ、いつも通りの他愛もない会話を始める。
「花音ちゃん、あの時かなり緊張してたよね。見てるこっちまで緊張してきちゃったよ」
そう言って優しく覗き込むと、彼女は俺の視線とぶつかり、逃げるように軽く目を逸らした。
「そうだよ〜緊張するよ〜! 初めてのことだし、空気ピリピリしてるしさ! 周りの真剣な雰囲気にのまれそうだったもん!」
「ははっ……俺も最初の頃はそうだったよ。よく頑張った頑張った……」
頭では「これ以上踏み込むな」と叫んでいるのに、溢れ出す愛おしさを抑えきれず、テーブルの下で俺の手がそっと彼女の膝に触れた。
熱い。接触した皮膚から、じりじりと灼けるような電流が駆け巡る。
その後、俺たちの間に言葉は途切れた。アルコールの酔いと、智哉への嫉妬、そして目の前の花音を渇望するドロドロとした情欲が、俺を繋ぎ止めていた理性の鎖を静かに、確実に溶かしていく。
宴がお開きになり、帰る方向が同じだったこともあって、俺と花音は二人で夜の街へ連れ立った。街灯やネオンの光が濡れた路面に乱反射し、居酒屋の前からは香ばしい焼き鳥の匂いが漂っている。
歩きながら交わしていた世間話も、やがて自然と途切れ、静寂が二人を包み込んだ。
『花音に触れてはいけない』
その思いを強く、『智哉が待っている』、と自分を制す。隣を歩いてはいるが、触れないよう、触れないようにと注意を払う。
前から歩いてきた酔っ払いのサラリーマンを避けようとした瞬間、ふいに俺の指先と花音の指先が触れ合った。
……ただ、それだけだった。
だが、触れ合った指先から伝わる圧倒的な温もりは、押し殺してきた二人の欲望を爆発させるには十分すぎる火種だった。
智哉との誓いも、指輪の意味も、やり直したはずのこの世界の理すらも、すべてが暗闇の彼方へと吹き飛んでいく。
気づけば俺たちは、雨の降りしきる夜の街、静まり返ったホテルの密室にいた。
狂おしいほどの愛おしさと全能感に突き動かされるまま、俺は花音を逃がさないように抱き寄せていた。




