リップの罠
俺は今、最高に幸せで、すべてを完璧にコントロールできている——。
そう本気で信じ込み、無防備に油断しきっていたその隙を突くように、ライバル他社との合同コンペの日がやってきた。
冷房が容赦なく効いた15階の役員フロア。ガラス張りの長い廊下には、他社——智哉たちの会社——の名札を首から下げたスーツ姿の人間が、殺気立った足取りで行き交っている。
会社の命運を賭けた合同会議、その幕が上がる30分前。
大理石の柱の陰で、花音が誰にも気づかれないほど微かに肩を震わせているのが目に入った。
今までは、完璧な受付嬢を演じることで自分を護ってきた彼女の最強の鎧。だが、今日ばかりは緊張で喉を乾かせ、パンプスのヒールを支える足首すら頼りなく見える。
一緒にいた須藤さんがその場を離れたことで、一人取り残された花音は必死に深呼吸を繰り返していた。
静かに、けれど確かな足音を忍ばせ、俺は彼女へと歩み寄った。
「花音ちゃん?」
呼びかけると、ハッとして顔を上げた彼女が、通り過ぎる他人の目を意識してかろうじてビジネス用の微笑みを浮かべようとした。
だが、俺はそんな彼女の小さな防衛線をあざ笑うかのように、すっと一歩、間合いを詰めた。
近すぎる距離。俺の胸板から放たれる体温が冷え切った彼女の肌に伝わったのか、彼女の瞳が揺れているように見えた。
「リップ、落ちかけてるよ」
低く、鼓膜を直接揺らすようなトーンで囁く。次の瞬間、俺はポケットから今期のプロジェクトで開発中の新作リップバームのサンプル容器を取り出した。
そして、他人の目を盗み、俺の少し硬い親指の腹で、花音の柔らかい唇にそっと触れた。
「あ……」
声にならない吐息を漏らす彼女。
はみ出たわずかな色彩を拭うように、ゆっくりと、狂おしいほどの愛おしさを込めてその唇の輪郭をなぞる。
周りの社員たちは自分の準備に必死で、俺たちのこの密やかな接触に誰も気づかない。
その特権を悪用するように、俺の指先は執拗に、彼女の唇の柔らかさと熱を確かめるように触れ続けた。
「じっとしてて。鏡ないからやってあげるよ」
彼女の華奢な顎を指でくいと上へ向けさせる。
もう片方の指頭に透明な緋色の液体をすくい取ると、今度は彼女の唇の中央へ、直接ぽんぽんと丁寧に乗せていった。逃がさないように顎を固定したまま、俺はフッと優しい笑みを向けた。
「緊張してんだろ」
顎を掴まれているため動くこともできず、彼女はただ「うん……」と小さく呟いた。
リップに含まれたミントの成分が皮膚に浸透し、彼女の唇が熱を持ってじんわりと腫れぼったく色づいていくのが分かる。
だが、それ以上に彼女をひりつかせているのは、俺の指先が触れているその場所だろう。
俺の指から、押し殺していたはずの「男の情欲」と狂おしいほどの独占欲が、そのまま彼女の唇へとなだれ込んでいく感覚に陥った。
優しく、だがどこか強引に、相手を自分の色へと染め上げていくような触り方。
指先越しに伝わってくる彼女の熱い吐息と激しい鼓動を感じながら、俺の中のバケモノは、彼女を俺の色で塗りつぶしていく甘美な快感に浸っていた。
「よし。完璧だ」
俺はそう呟き、ゆっくりと彼女の唇から指を離した。離した親指の腹には、花音の唇から移った緋色の蜜が、街灯と蛍光灯の光を反射して妖しく光って残っていた。
その指先をそっと見つめ、俺は目の前で息を呑んでいる彼女へ、いつもの悪戯っぽい微笑みを向けて見せた。
「見れないだろうけど、すごく似合ってるよ。これで堂々と行けるな。……まあ、みんな花音ちゃんから目を離せなくなっちゃうかもしれないけど」
冗談めかしたトーンでそう告げると、俺は名残惜しさを押し殺すようにくるりと背を向け、彼女の前から歩き出した。
花音は今どんな顔をしているのだろうか。
親指に残る彼女の唇の柔らかさと、甘く熱い感触はしばらく忘れられそうになかった。
(俺は、智哉の恋人……花音は、ただの同僚……ただの同級生……)
どれだけ綺麗な言葉で自分を偽ろうと、甘みを覚えた俺の指先は、もう彼女を自分の色に染め上げることしか考えられなくなっていた。
こんなことをすれば彼女の気持ちが揺らぐことはわかってる。わかっていたのに……。




